7月11日
明日、出発します。
今日は、お父さんお母さん、仕事組のみんなと夕食をいただきながら、たくさんの話(私のなのはな歴史から、結婚生活のことまで)を聞かせてもらい、なのはなファミリーでの時間は、みんなからもらった生きる希望・力そのものなんだと感じました。お父さんお母さん、みんなに繋いでもらったこの命なんだと思いました。恩はもらった人には返せない、とお父さんお母さんはずっと言ってくれます。なのはなのお父さんお母さん、みんなへの恩は、みんなに直接返すことはできない。これからもずっと道を作ることで、恩を返していくのだと思います。でも、ひとりぼっちで恩を返すわけではない。ひとりぼっちで未知を作るわけではない。みんなと一緒にしていくことなんだと思います。
人生はずっと崖っぷちで、いまもこれからも崖っぷち。不安はなくならない。結婚に向かっても、不安があって当然。でも、不安のない場所に行きたいと逃げの気持ちでいたら、苦しくなる。崖っぷちにも不安にも、前向きに向かって逃げないでその崖っぷちを味わったらいい。不安OK,崖っぷちOK。結婚したら、今度は夫婦2人でその崖っぷちを味わえばいい。出発への寂しさと不安が、“前向きに向かっていく良い不安”へと切り替わっていくのを感じました。
数日前に、お母さんが話してくれました。
なのはなの一人ひとりが発信者となっていくこと。
自分の体験はきちんと言葉にして人に語れるようになって、自分と同じような人が来たら、大丈夫、こうだよ、と答えられるようになること。
私は、これからもずっと、誰かにきちんと語れるように、自分の回復の物語を生きていきます。不安もある、いつも崖っぷちだけれど、そのそばには、“使命”という言葉があるのだと思いました。結婚します、幸せになります、終わり、ではない。それは、私にとってなんて安心することなんだろう、と思います。ただ幸せになるために結婚するんじゃない、ということにむしろ大きな安心感を覚えました。よしえちゃんとしんやさんの結婚式での挨拶にもありましたが、出発の心持ちは「2人で幸せになります」ではなくて、
「幸せも不幸も、困難も、2人で味わって、乗り越えていく。困ったら、お父さんお母さん、仲間たちがいてくれる。私たちは、みんなと成長していく。優しい選択はなにか、利他的な行動は何か、困ったときにどう乗り越えていくか、その答えを一つひとつ積み上げていく。一人ではなく、二人の家庭、夫婦という関係の中で考えていく。同じような人に、こうだったよと語れる人生を今度は家庭という形でも積み上げていく」
それが結婚なのだと思いました。
もちろん、振り返って、幸せだったね、といえたらそれは最高だけれど、いまこの時点で、『大団円』ではなくてよいのだと思いました。どこまでいっても、道の途中なのだと思いました。その道を歩くときに、なのはなの仲間だけではなく、新しくくまさん(大熊さん)が一緒に歩く仲間になる、というのが、これからです。
『摂食症からの回復、なおの場合』
これを本当に明確に語れるように、明日からも、ずっとずっとこれまでのなのはなの生活の延長で生きていくのだと感じました。自分がいかに未熟かしっかりと自覚して、自分のすぐそばには穴ぼこがあることを決して忘れず、謙虚に生活をする。日々を流さないで、丁寧に、毎日の中にある小さな喜びをしっかり感じて、地に足をつけて生活をします。
私は29歳でなのはなファミリーに来ました。はじめは、本当に治りたい気持ちもいっさいなくて、希望のかけらもありませんでした。一度は投げた人生、投げた命。でも、諦めなかったのは、私ではなくお父さんお母さんでした。私がもういいんです、と言っても、そうじゃない、と私に伝え続けてくれました。届くまで待って、待って、待って、待ち続けてくれました。届いたかなと思ったら、また後退しても、それでもお父さんお母さんは私の人生を信じてくれました。
食べて普通の体形になってみて、身体的に元気になってみて、やっぱり自分にはなんの価値もなく、なんの能力もなく、誰にも愛されず、誰も愛せず、生きることに希望を持てなかったら……そう考えると恐ろしく、どうしても食べたくないと思っていました。でも、お父さん、お母さんがいいました。
「食べて体重を増やしてみて、やっぱり苦しいままだ、となったらまた痩せて病気に戻ったらいい。それは僕たちが約束するよ。食べて元気になってもまだ苦しかったら、治る価値がないと思ったら、全部僕たちのせいにしたらいい。だから、一回治ってみな」
回復する価値のある自分なのか、回復する価値のある人生なのか。正直、はじめはわかりませんでした。でも、やけくそになりました。食べて体重が増えて、みんなと同じように動けるようになってみて、それでもやっぱり変わらないじゃないか! と思ったら、なのはなファミリーのせいにしてやるんだ、お父さんお母さんのせいにしてやるんだ、と。そんな希望と言えないようなやけくそな気持ちで、食べるという一歩を踏み出したことを覚えています。私がなのはなにいてどんどんやせ細って、本当に死ぬかもしれないという状況も受け入れ、治らなかったら自分たちのせいにしていいと言い、それくらい、お父さんお母さんが人生をかけて、私を治る軌道へをのせてくれました。お父さんお母さん、スタッフさん、なのはなのみんなが、自分以外のみんなが、よくなっていく道を信じていたと思います(渦中にいたときは、余計なお世話だ、私の人生なのだから治ろうが治るまいが関係ないだろうなんてひどいことを言っていたけれど……)。
そして、食べ始めて、なのはなの生活を受け入れていき、私は、本当に少しずつ、ひとつずつ、生きていく意欲や希望を見つけてきました。
動けることの喜び。何かをやりたい、という小さなやる気が芽生えたこと。ものをつくる面白さを感じたり、みんなと作業をして初めて楽しいと(本音で)言えたこと。誰かが、自分のしたことで喜んでくれたり、笑ってくれた時の気持ち。失敗して怒られて、なにくそ、と燃えたとき。
なのはなに来てすぐに、私はなのはな土木というチームに入り、毎日土木作業をしていました。もちろんはじめはみんなの作業についていくことすらできなかったけれど、徐々に力がついてはじめて重いセメント袋を持てた日は、嬉しかった。
はじめて、山小屋の坂道をみんなと一緒に坂ダッシュできた日。嬉しかった。
お父さんとお母さんは、来てすぐに私に『演劇』という手段を与えてくれました。
なのはなに来て一か月目、まゆみちゃんとよしあきさんの山小屋結婚式での、ウリ太郎劇団デビュー。みんなの前での初めての演技。快感だった! (まゆみちゃんの友達役を演じた)。
私がなのはなに来た次の年の、山小屋での新春コンサートの準備でのこと。コンサートでする寸劇の台本を、自分が初めてまかされて書きました。うんうんと頭をひねって、あ、これ面白いかも! と浮かんだアイデアを台本にしてお父さんに持って行きました。山小屋の事務所で、セリフを読むお父さん。緊張、どうかな。と、お父さんが大爆笑! これ面白いね! と。そのときの気持ち、そのときの空気は、私は忘れないだろうと思います。お父さんがもっとこうしたら面白いよ、と前のめりになって一緒に考えてくれました。脚本(それは本当に数人のうり太郎メンバーでやる短い寸劇で、いまのウィンターコンサートとはまったく違うものですが)をよいものにしようと、とお父さんとタッグを組んでいる感覚。お父さんとの距離感や信頼がぐっと縮まったような、そんな感覚です。
演劇の転換点、と言えば、古吉野の体育館でのコンサート(これも新春だったと思います)。そこでも、私は脚本を書きました。なんと、自分がなのはなに来てからのストーリーを劇にしてしまうというものです。なのはなにきて、みんなみたいにはなれない、私は治りたくないと言ってハンガーストライキを起こし限界までやせ細り、親に連絡をして親になのはなで死んでもいい、と言われる、そこでなのはなのお父さんお母さんに預けて治るしかないと腹をくくり、前向きになる、それをなのはなトラベルというモチーフに演劇にしました。それは、自分から親への覚悟のメッセージでした。親が、その古吉野の体育館でのコンサートを見に来ていて、劇というフィクションを通して、自分の気持ちを思い切り表現した、そんな劇です。今思うと、もうほとんど自分の話(ノンフィクション)を劇にするという思い切ったことだったのですが、お父さんお母さんにもGOサインを出してもらい、演じました。セリフを通して、私はなのはなで治ります、ここが私の拠点で、私のホームグラウンドです、と言えたことが、回復の中で大きなことでした。
体力がついてきて、しっかり動けるようになってなんて毎日は面白いんだろうと感じるようになりました。初めてフルマラソンを走った年、その春は山小屋の山で盛男おじいちゃんとしいたけの榾木の伐採の作業をしていました。朝早くに古吉野から山小屋へ行き、夕方まで山で木を伐り運搬する作業、そして帰ってきて夕食前に8キロのランニング。来たばかりの頃には想像もしないくらい身体を目いっぱい使う毎日。気持ちよかった。
建築や土木の作業チームのリーダーにもなって、毎日発見と失敗の連続。重い電動ドリルでコンクリートをはつり、ランマーやタンパーで地面を転圧し、下水パイプをつないで埋め込み、コンクリートをうちスロープを作り、プレハブを建て、居室も改装し……須原さんにたくさんのことを教わり(迷惑もたくさんかけ)、泣いたり笑ったりの毎日でした。
そうそう、チーム作業がうまくいかず、私はお父さんに、「私はリーダーは向いてません!」と泣いて訴えたこともあります。そうしたら、お父さんは、落ち着いた口調で、「知ってるよ。お前はリーダーには向いていない」と。当然だろうとばかりにそう言われて、私は拍子抜け。でも、「ここは自分を鍛える場、成長させる場、自分を知っていく場だから、リーダーに向いている人だけリーダーにするわけではない、リーダーをしてみると、自分がよくわかるだろう」とお父さんは言いました。出てた涙が引っ込み、そうか、立派なリーダーにはなれない自分がわかった、確かにその通りだと、納得しました。
ウィンターコンサートで、団長という役を演じたことがります。それは、リーダーは向いていないと泣いた自分への、ひとつの答えの役なのかなと、いま振り返ると思います。演じてきた役は全て自分の血肉でその役も大好きで大事です。その中で、この団長は、自分がどう人と関係を取り、どう助け合って、どう自分をいかすか、その答えがある役だと思います。お母さんがずっとずっと、「団長として生きたらいいよ」と言ってくれます。自分は、まだまだその深いところでの理解や体現ができていないです。でも、イメージはあります。
お節介でお人好しで、優柔不断で頼りないけれど、ジーブス君のようなしっかり者で助けてくれる仲間がいる。決してスマートにみんなを引っ張っていくタイプではないけれど、なんだか泥臭くておっちょこちょいで憎めない、みんなの中でみんなに助けられて前に進んでいく。
いや、団長に限らず、私はいつだってそんな役をもらっていたように思います。悪役だって、ばりばりのかっこいい悪役ではなかった。悪役だけれど、どこか抜けていた。宇宙船の忠雄も、ジョーカーの誘惑に一度は負けてしまう。明石先生も、ジャンというパートナーがいた。市ヶ谷博士も、孤高の博士ではなく人を楽しませることが大好きで、大事な助手のアンドロイドがいた。魔術師には、ヤマトがいた。あさぎ先輩にも、語り合えるもえぎやちぐさがいた。手相見おじさんは、ゆめの、ちの、じゅりの3人娘にたじたじになりながら引っ張ってもらっていた。そう、私はいつだって、孤高になってはいけないし、情けない姿を見せても、なにができなくても、仲間の中で助けられて、一生懸命生きて、私も何かしらの役割で、それがどんな小さなことであっても、誰かを助ける。そういう中で生きるんだと、思います。もし、自分がひとりにこもりたい、一人でなんでも解決するんだと思ったら、私の人生は崩れます。私は、私でいられず、うっすらした苦しさがある人生になってしまうと思います。
演劇は、私を前向きにさせ、私の人格を作り、私の中にやる気や意欲や夢中になる気持ちを育ててくれ、そして自分がどう生きるべきかという道を示してくれました。お父さんとお母さんの物語の中に、キャラクターのなかに、それはありました。私は、ずっと演劇を人生の車輪のひとつとしていけたら嬉しいなと思います。
学ぶ楽しさも、なのはなにいたから自分の中に生まれました。簿記部で村田先生に出会い、新しい世界を知って、積み上げていく面白さを知りました。私は15歳で高校を中退して、もう勉強なんて人生で二度としないであろうと思っていました。その自分が、簿記の試験を受けることになりました。試験というのは自分が人から試され、評価され、ランク付けされ(結果できないと烙印を押される)、そういう逃げたいものでした。でも簿記部は違いました。知らない単語、考え方、お金の流れや商売の仕組みが、自分の中に最高に面白い(興味深い)世界として広がっていました。いや、実は最初は簿記単語の意味も仕組みもよくわからなくて、パズルゲームのような感覚で暗記しながら問題を解いていました。とにかく、誰の評価でもなく、誰との競争でもなく、目の前の物事に没頭する感覚でした。身体を鍛えながら、頭もちゃんと使っていけるようになっていたのだと思います。集中力もついていました。3級を受け、2級を受け、もっとこの世界を極めたいと思って、1級を受けたいと思いました。お父さんお母さんに相談すると、1級をとるということは、職業を決めるということにもなるよと話してもらいました。つまり、税理士です。日商簿記1級に合格すると、税理士試験の受験資格が得られます。私は、税理士が何たるか、ちゃんとはわかっていなかったです。でも、よくお父さんお母さんが、人生には運や縁というものがある、流れがある。それに逆らわずに、無理矢理どうにかしようとせず、生きるのがいいと。私が、こうして簿記に出会い、簿記が面白いと感じているのは、縁であり流れなのだと感じました。だから、この流れの先にある税理士を目指そう、と自然に思いました。
流れや縁だから、税理士を目指してしっかり勉強はするけれど、もしかしたらなにかの流れが変わって税理士にならないこともあるかもしれない、という気持ちもありました。真剣に向かう、けれど欲張らない。運と縁を信じる。
税理士試験の合格。それはなのはなファミリーという環境と、お父さんお母さんから教えてもらう勉強法があったからたどり着いたものです。みんなと同じ生活時間帯で寝起きをする。イベント、全員での田植えや稲刈り。日々の当番。ウィンターコンサートがあれば、3か月は勉強をすぱっと休む。終わったらまたしっかり勉強に向かう。1級~官報合格までは、そんな生活があったから続けられたことです。
一時は税理士の仕事でバランスを欠いてしまったことから、自分の中にそういう危うさが常にあることを忘れてはいけないと思いました。世間の尺度で自分の価値をはかり、自分に鞭を打ったり、自己否定をしたり、欲をかいたり。そうすると、仲間の存在から外れて寂しく苦しくどんどん一人になってしまいます。
いまも、税理士の仕事を続けています。私は、縁あって税理士をしている、流れに乗って税理士をしている。奢って自分でどうにか良い仕事をしたいと思わず、小さく誰かの役に立てることを大切にしていきます。
くまさんとお見合いで出会って、結婚したい、という気持ちになったのも、本当に自分にとっては奇跡的です。なのはなで心と身体を立て直し、勉強もして、仕事もして、でも、結婚は『したくない』わけではないけれど『したい』とまでは思わない、という状況でした。実は、岡山の婚活サービスに登録した時も、本気で結婚相手を見つける、というところまでになっていなかったです。でも、登録して3か月くらいの時に、くまさんが申し込んでくれて会うことになりました。くまさんと会って話すうちに、あ、結婚したいなという思いになりました。くまさんと会っていて、「胃が痛くならずに、安心して食事を共にできる」という経験をしました。私にとってそれは、大切なことでした。おいしいねと食事を楽しみ、今日あったことや思ったことをあれこれ話す、おはよう、おやすみ、いってらっしゃい、ただいま。なんてことのない、でも大事な日常。それを相手も大事にしたいと思っていることを感じました。なのはなのことも、くまさんに自然に話しました。なのはなファミリーがあるから、今のなおさんがあるんだね、と言ってくれました。
自分でも意識していなかったけれど、「彼と会ったあと、いつも嬉しそうに帰ってくるね」とお父さんが話してくれたことがありました。私はこの歳まで男性とお付き合いの経験がなく、恋愛感情については正直わからないのですが(頭で理解する類のものではないのかもしれませんが)、胃を痛めて気を使って相手の顔色を窺ってということもなく、くまさんといると自然に一緒にいる時間を嬉しいなと思えることが、自分にとってはなかったことだったなと思います。
結婚を決めたあと、お父さんお母さんから、「そのままじゃ結婚してもうまくいかない」というお話しをしていただきました。ちょうど、今年の2月の初めでした。ちょうど、ミーティングの時期でした。わたしは、ミーティングに向き合って、それから本当に結婚をするかどうか決めようと腹をくくりました。くまさんとも、なのはなでミーティングがあることを伝え、自分の問題として考えたいから時間を欲しいと言いました。くまさんは、なおさんのことを一番に理解して、ずっと見てきたお父さんお母さんのことだから、大事なことなんだね、と言って待ってくれました。その間、くまさんは、結婚したいと思っている気持ちをずっと変わらずに持ってくれていました。
ミーティング講義やお父さんお母さんとの対話の中で、自分の視野の狭さやスケールの小ささを自覚しました。また、自分が小さいころなにに傷つき、どんな家族、家庭を求めていたのか、そのことをはっきりと言葉にして認識をしました。そのうえで、あらためて、結婚をしたい、と思いました。結婚を自分の問題から逃げるかりそめのゴールにするのではなく、私は彼との結婚を通じて、自分のスケールを最大限に伸ばしていく生き方に能動的に挑戦したいと考えました。
ミーティングの講義の中で語られた「幸せ」の定義。両親が仲良くし、笑いながら食事をし、共感し合いながらご飯を食べる、一家団らん。私には、それが欠落していました。私は、社会の最小単位である「夫婦」が互いを尊敬し、いたわり合える関係を、自分の手で能動的に築き上げたいです。結婚して夫婦になったら、お互いにとっての絶対的な安全地帯になります。そして、自分たちの「半径の狭い幸せ」に安住するのではなく、二人でその温かさを周囲に広げ、仲間を増やしていく。ミーティング講義で言われていた「小さな世直し」を、私は彼と共に実践していきたいです。なのはなという場所、そしてお父さんお母さん、みんなと常に関係を取りながら、自分たちの生きる方向性を確かめていきます。
私の回復の道はずっと続いており、自分が後に続く人の材料になれるよう、これからの結婚生活もまた回復の道の上にあると思っています。いつも、すぐそばには穴がある。そのことを忘れず、依存や過去の生き方に逆戻りするのではない、私が主体となって彼と一緒に、なのはなのみんなと新しい人生観を作っていきます。
「ひとりから、ふたりへ、そしてみんなで」
お父さんがよしえちゃんの結婚式で作ってくださった歌詞を読んで、私もそんな風に彼と生きたいと思いました。
半径50センチからのスタートだとしても、二人でまず1メートルにして、みんなの力を借りながら、数センチずつでも視野を広くし、「同じ方向を見て生きるみんな」と共に世界を広げていく。彼と運命共同体になっていくこと。彼と、人生の歴史を積み重ねていくこと。そう生きていけるように、日々謙虚に歩んでいきたいです。
くまさんとの会話で心に残っていること。二人で、子供の時の家族の話をしました。そのときにこんな会話をしました。
「じゃあ、子供の頃できなかったことを、ずっと欲しかった家族、家庭を、結婚して作りましょう。食事を一緒にしよう」
と私は言いました。彼に、
「私はうるさいくらいしゃべるかもしれないけれど、それでも大丈夫ですか?」
と聞くと、
「何十年分もしゃべりたいことがあるから、嬉しい」
と、くまさんは言いました。そうしたいと思いました。たくさん、話したいと思いました。
なのはなのお父さんお母さんが、家に帰ってからもずっと喋っているという話をよく聞きます。私たちも、そんな風に家でたくさんおしゃべりをしたいです。
2人とも、当然ながら初めての結婚、初めての共同生活で、いろんな経験がなさすぎでたぶんうまくいかないことが次々出てくるはずです。だから、家族・夫婦・家庭作りは私にとって一大事業です。不安でも逃げずに、面白がりながら、その事業を彼と成し遂げていきたいと思っています。
話があっちこっちいって、まとまりません。最初に書いたように、なにか大きく人生が変わるわけではなく、むしろなのはなファミリーの生活のそのままの延長に結婚生活があり、くまさんというパートナーとの関係の中で自分の心を耕し、人格を作っていく、自分の人生の問いの答えを積みあげて道を作っていく。不安も前向きに向き合って、具体的にして解決策を見つけていく。そういう気持ちで、過ごしていきます。お父さん、お母さん、なのはなファミリーのみんなと一緒に。
ありがとうございます。いってきます。そして、これからもずっとずっと、よろしくお願いします。
