「自立とは」 ななほ

7月6日

 今日はスタッフミーティングだった為、お父さんとお母さんの集合はありませんでしたが、夕食の時間に間に合い、みんなと「お父さんに聞いてみよう」を見ることができました。
 本日の質問は、「自立とは」。

 先日、ハウスミーティングでこの質問が出て、お父さんが話してくださっていましたが、改めて動画でもう一度、お父さんが詳しくなのはなファミリーで考える自立について解説しているのを見て、言葉と文字で再度、自分の中に落とし込んでいけることがありがたいなと思いました。

 自立とは助け、助けられること。世間では時として、自立というのは「誰かに助けてもらわなくても1人で立って生きられること」という風に捉えられがちですが、実際に人は1人だけで生きることは難しいし、むしろ、1人の世界で1人だけで完結していたら、それは自立とは言わないだろうなと思いました。

 今、なのはなから働きに出る中でも、時々「自立」について考えることがあります。自立と言っても、一概にここからここまでが自立で、この段階では自立していないという風に白黒分けられるわけではないですが、今、私はなのはなファミリーという1つの社会で過ごしその中で、いい意味で守られながらも、自立した生活を送っていると思います。

 保育士として働く中で、常に同じ職場で働く同僚や先輩方とのコミュニケーション、関係が大切だし、それだけではなく子どもや保護者、園に関わる様々な人との関係が必須です。その中で、「自立」を思った時、ただ自分が任されている仕事を1人でこなすだけでは、仕事はできても自立はできていないように思います。いかに、職場の中でいい関係を築き、誰かと協力して仕事を進めていくか。仕事ができても、人間関係がとれなかったら、社会では成立しないし、信頼も得ることができません。

 今、仕事をする上で毎日たくさんの人と関わりながら過ごしています。正直、仕事よりも人間関係から学ぶ、社会性や語彙、生き方について考えるきっかけの学びの方が遥かに多いし、誰かと関わる中で自分自身を誰かにうつしながら成長させてもらっているなと思います。

 私の場合、10代の初めに摂食症になり、中学校には7日くらいしか行けず、高校も大学も通信で、同世代の人とか先輩だとか、先生だとかいう人とかかわった経験がほとんどない状態で社会人として働き、その中で初めはすべてが初めてで、すごく緊張したし、日々、言葉選びや態度、行動にビクビクするようなところもありましたが、1年半働く中でも、どのようにしたら自分が役に立てるのか、どのようにしたら上手に助けてもらい、自分も誰かを助けられるのか、いい信頼関係を築いていけるのかを、日々学ばせてもらっています。

 それは、何かの授業を受けるとか、社会人マナーの勉強をするとかいう訳ではなく、自分を誰かに映しながら学んでいくものだし、保育士2年目の今、同期の人や今年から入った新しい先生とはすごくいい信頼関係が築けていて、無償で助け助けられる関係、職場での仲間という関係を上手に築くことができています。

 だからこそ、仕事がしやすいし、他の先生方にも信頼してもらい、高く評価してもらっていて、それはなのはなファミリーでの教えや価値観のお陰だなと思います。

 また、「自立」を思う時、例え外に働きに出ていなくても、なのはなファミリーの中でもなのはなという1つの社会の中で自立することはいくらでもできます。そういう意味では、なのはなファミリーは施設というより、社会だなと思うし、どこの職場よりも、学校よりも、社会よりも多くの正しい価値観や知識、モラルを学ぶことができて、トライアンドエラーができて、よく生きるための方法を高度に学んでいけるなと思い、そのことがありがたいなと思いました。

 話は変わりますが、昨日の質問では「可愛い、綺麗だと思えないこと」についてお父さんが話した動画をみんなと見ました。それを聞いて、今でこそ、私は普通の人以上に色々なものに興味があり、好きな気持ちや綺麗だと思う気持ちが、もしかしたら世間の人以上に深く感じている時もあるだろうなと思う瞬間が多いですが、なのはなに来る前はそれが全くなかったことを思い出しました。

 当時は自分のことでいっぱいいっぱいで、それどころではなかったし、もしかしたら心に傷を負った時点で、何かを好きだとか可愛いと思う気持ちを失っていました。好きなものもない、好きな色もない、好きな場所も楽しいと思える環境もない。ただ、その場に合わせて、相手の顔色を伺いながら「これが好き」「可愛いね」と言ってみるだけで、本当に好きなものや好きなことが分かりませんでした。

 それと同時に、将来の夢もない、好きな味や食べ物も分からない、何がしたいのか分からない。何も考えなくなくて、でも、何か考えていないと不安で、すべて決まっていてほしいけれど、自分で決めなければいけないと追われて、喜怒哀楽の感情とは程遠い無の世界で、ただ、責任から逃れるための自分、攻撃されないための自分でい続けようとしていたなと思います。

 そして、決定的に自分が変わったなと思うのは、子どもを可愛いと思えるようになったことです。
 保育士の仕事をしているのに、私は子どもが嫌いでした。嫌いというより、子どもというものが怖くて、怖くて、近寄りたくなかったです。

 小学校低学年の頃、従弟が生まれた時とても、可愛いとは思えませんでした。抱っこするのも怖い、おむつを替えるのも怖い。私に向かって笑いかけないでほしいと思っていました。そして、誰かに大切にされているものが怖かったです。その、誰かにとって大切なものを私が触ったら、その大切を壊してしまうような気がしていました。

 他にも、自分より歳が小さい子どもと関わるとき、その子どもが純粋に私を好きになり、私に笑いかけてくれたり、私になついてくれるのが怖くて怖くて、無意識にガードを作っていました。「好き」という気持ちを向けられると、「それ以上好きにならないでほしい」という態度を無意識にとっていたし、相手の気持ちに自分が応えられる気がしなくて、自分よりも小さな子を労わらないといけない、大切にしないといけないと思うのに、シャットダウンして、わざと嫌われるような行動(無表情になる、笑い返すことができない)というふうになっていました。

 無償で笑いかけてくれるもの、誰かにとっての大切が怖かった。自分を無償で好きになってくれるものに対して、何か借りができてしまうで怖かった。まだ話ができないような赤ちゃんでさえも、関係が取れなくて、自分がどう反応を返したらいいのか分からなかったし、その子どもが何を考えているのか分からない、得体のしれないものでしかない恐怖がありました。

 今、職業的にもですが、自分の気持ちが楽になったら子どものことを心から可愛いと思えます。子どもを理解できるし、理解したいと思えます。子どもたちが向けてくれる純粋な笑顔や気持ちにいくらでもこたえられる強さと包容力(子供よりから大きいはず)を手に入れたし、心の余裕もあるから、子どもと十分に関われます。

 それは私にとって奇跡です。そして、お父さんとお母さんから見たらそれは、必然なのかもしれません。
 摂食症から回復するのは、当事者にとっては本当に奇跡でしかないけれど、それにはちゃんと理由があり、治るプロセス、治るきっかけがあり、それを奇跡ではなく、必然にしていかなければいけないなと思います。

 私も自分自身の経験を通しても、摂食症から回復することを特別なこと、奇跡のことにするのではなく、誰でも考え方次第、回復のプログラムがあれば治れるという理論づいた回復、必然にしていけるように、データを残したり、分析したり、自分自身のことも深く知り、理解し、知識や記録を積み重ねていきたいと思います。