4月16日
数日前から読んでいた本で、『日本の川を旅する』を読み終えました。野田知祐さんのカヌー単独行で、日本の北、北海道から南の鹿児島まで、14つの川で、それぞれ旅した情景が書かれていました。
日本は川が多く、川の文化があると知りました。本来、美しく澄んだ水で、その中で魚や多くの生物がいて、それを食料ともするし、その川の水を生活に使うし、川があるその景色の移り変わりを見て過ごす、というのがあるものだと思わされて、しかし、自分は住んでいたところに川があったけれど、あまり注目することがなかった、関心がなかったと思いました。この本には、日本の川の美しさと、しかし、それがなくなっていく悲しさがが書かれてありました。
どの川の記事も面白かったけれど、得に印象深いのは『長良川』についてでした。水流が多く、流れが強い、天然鮎が沢山獲れる川。その川の支流の中でも最も美しいのが亀尾島川で、その淵に潜ると、大きな丸い青いガラス玉の中にいるようであったこと。アユ、アマゴ、マスなどがいる。私は、そういった魚を見たことがないけれど、アマゴは腹にブルーの筋と赤い斑点があり、それが頭をそろえて泳いでいる群れとあって、そういう情景を思い浮かべました。そして川の水面に上がると、岩にセミや水面に巨大なオニヤンマが尻尾を叩いて見える、という情景で、そういう世界を思い浮かべて、日本にこんな世界があったのだと知りました。
しかし、そういった情景とは裏腹に、長良川は日本で唯一、ダムのない川であったが、住民の反対を押し切り、ダムが建設されることになった。洪水防止と言われるが、1番の目的は工場用水確保である。ダムが作られることによってどんな悪影響があるかというのがあって、ダムを作ることによって、川の水量の90%がそこに溜まる。そうすると、川魚が住みずらくなり消滅していく。河口に静水地帯ができると、ヘドロが溜まり、水が濁ってドブ化する。というのがあって、私は自分が子供の頃、ダムによって生活がしやすくなるというのを教わった記憶があったし、あまり問題視していなかったけれど、やはり自然の流れを止めてしまうのだと思いました。
長良川では、昔ながらの水のサイクルというのがあって、背後の山から竹の桶で水を引き、『水フネ』と呼ぶ水槽に水をためる。それが2つに分かれていて、1つは飲料水、もう1つは野菜や茶わんの洗い場になる。その水は捨てずに池に落し、コイやマスを飼う。池の水は、水車小屋に引き込んで米をつき、更にその水は洗濯用の洗い場に流れるという。でもこれも書かれてあるのが昭和6年なので、もう消えているかもしれません。
田舎の過疎化と、そこにあった農村の文化が消えていくというのを改めて思いました。『日本の川を行くのは哀しい。それは失われたものの挽歌を聴く旅だ』と野田さんは書かれていて、こんな川が日本にあるのだなと知りつつ、それが失われていく、もう今の現在では殆ど失われているだろうというのを思いました。
自然が多い、川の上流ほど、人々はおおらかで優しい、下流に行くほどそうでなくなっていくとありました。自然の中でまだ昔ながらの生活文化が残っている中では、人と人との垣根が低く、人を思いやったり人に対して壁を作らず思いやるようにできるのを思いました。川が生活のためにと、人工的に色々と手を加えられるほど、自然が自然の形ではなくなっていく。洪水が起きないよう、工場をつくるためと、道路を建設するためと、住みやすくするためと変えているとは思う。確かに昔のままでは色々な災害や不自由なこともあったかもしれないが、それでも昔の人は、厳しい中でも生きられる知恵があって、厳しいなら厳しいなりに生きるようになっていただろうし、人工的なものや自然に逆らうものが何もない中で工夫して、自然といい循環になっていたのだろうし、そうすると、自然と人の気持ちも、自然を大事にし、今あるもの以上を望まず謙虚になり、周りの人と助け合う精神になるのかなと呼んでいて思いました。
カヌーにのって急流を下るときなど、ひっくり返るのは当たり前である。水の勢いが強く、その中に入ると水と水の壁の中に入る瞬間があること。春の小川を穏やかな川の流れに乗ってゆっくりと漕いで、土手の花を摘みながら行くこともあること。横の道路を車で走っても何も味気がない。川を下ることで、そこにある景色と人の暮らしぶりが分かり、そこに意味があるのだというのを、なるほどなと思いました。自分が知らなかった世界を知ったなと思います。
