「点を線に 愛情と理解」 なつみ

11月18日

 音楽合宿で書けていなかった日記を書きます。

・「点を線に」
 合宿の中で、あゆちゃんが、「みんなは点で頑張るのは得意だけど、それを線にして、繋げることは、とても苦手だと思う」と話してくれました。
 その通りという言葉しか出てきませんでした。
 
 いつも、何をしていても、途中で気持ちが切れてしまっていて、農繁期とか、マラソン練習とか、コンサート練習もそうだけど、一定して、続けるっていうことが、出来ないなと、自分でも思います。

 あゆちゃんは「コンサートも、人生と同じで、点ではなく、線で繋ぐんだよ」と話してくれました。
 コンサートを通して、点を線で繋ぐ練習が出来るんだと思い、だとしたら、今からそのことを意識して過ごすだけで、変わってくるだろうと思います。

 瞬発的に力を出すときもいるけれど、いつも、一定して穏やかに、利他的であれるように、長いスパンで考えて生活したいです。

・「どうしても書きたい。ハウスミーティングのこと」
 今年の脚本で「愛情とは理解」と出てきますが、理解って、よく考えてみると、どういう事なんだろうと思いました。
 わたしはなのはなに来るまで、理解という言葉を全く使ってこなかったし、今、自分はなのはなで理解されていると感じるけれど、なのはなに来るまでの環境を振り返った時、理解は無かったと思いました。
 どこにいても、理解しようという気持ちとか、理解されているという感覚を、誰も持たず、感じずだったと思います。

 お父さんは、愛情とは理解。理解とは、分かる。
 わたしはあなたの言うことがわかります。同意します。と言ったように、相手を肯定している言葉だと教えてくださいました。

 今の社会に、理解を感じてこなかったのは、世間の人が自分の利益しか分かってないから。他人の利益が理解できない。
 周囲に理解を感じてこなかったのは、世の中や親のルールを守れない自分を自分も理解できず、周囲の人もそういうルールを守れないわたしを、理解できなかったから。

 どうして、自分の利益だけを見て、他人の利益を理解しないのか。それは、蝶にならず芋虫のソフトウェアのまま大人になっているからだ、とお父さんは改めて話してくださいました。

 自分が食べていけること。自分の家族さえ良ければ――。幼い子どもはそういう気持ち。
 そういう子どもが、そのまま小学生になる、芋虫の発想のまま、自分、自分の家族さえ良ければの芋虫の小学生が、大人になって、芋虫の大人は、今度、そのまま自分、自分の子供、自分の家族さえ良ければになって、そうやって、利己的な社会、人と人との間に理解を感じられない様になって、ギスギスしていくのだと思いました。

 愛情とは、理解し、理解されること。
 わたしは、あなたの言いたいことがわかります。あなたの存在を肯定します。
 そういう気持ちで過ごしたならば、本当に、「Kin NHF」のシーンが、本物になるだろうと思います。

 わたしも、みんなに対して、もっと肯定的で、分かろうと思って過ごしたいです。

 日記が書けて、良かったです。