11月3日
日記が書けていなくて、気づきが溜まりっぱなしになっています。
箇条書きになってしまったとしても、ちゃんと毎日、気づきを流さず、自分の中に溜めていこう、と思いました。
〇演劇練習
演じるのが凄く難しいです……。ガーン、ガーン、ガーンの毎日を送っています。
劇をすると、自分の課題が次々と露わになると感じています。
お父さんに、「話し方が全部悲しく聞こえる、マイナーだ」とご指摘をもらいました。
自分の悲観的な部分が、セリフの受け取り方にも、言い方にも全部出てしまっているのだと思いました。
最初の、ちのと学生のシーンで「ちのちゃんってすごいよね、私たちとは違う人種って感じ」というセリフがあります。私は正直、それを嫌味だと思って解釈してしまっていました。なので、そのセリフを聞いている時は(なんでそんなふうに上げるんだろう、反応に困り、とまどっている風に演技しよう)と思っていました。それが大勘違いだということに気が付いて、衝撃が走りました。
そのあと、ちののセリフの解釈も全く違っていました。私の嫌味な部分、汚い心の部分が全部出てしまいました。学生の頃、不登校気味でしたが成績を周りから褒められた時、(なんで症状がなくて、普通に生活できて、学校に行けているみんなに勝っているんだろう、なんで症状がないのに勉強しないんだ! 私は普通に学校に行って、勉強だってしたいのに!)という気持ちがありました。そんなおごりの気持ち、高慢な気持ちがありました。それが、出てしまっていて、見ている人にも嫌な気持ちをさせる演技になってしまいました。
また、事故らしい音が聞こえた時、ちのは救急救命医になりたいと思っているのに、どうして駆け付けないのだろう、と疑問に思っていました。お父さんから、ちのは野次馬をする人ではないからだと教えていただいて、それも大きな気づきでした。
自分の価値観や、悲観的な気持ちからでしか、脚本を見ることができなくて、お父さんの「ちの」と私が演じる「ちの」に大きなズレが生じています。
ちのになったつもりで感じてみよう、と思っても、悲観的な思考で生きてきた私は、前向きな人がする思考が分からなくて、考えが止まってしまいます。
ちのの心の動きが正確に分からない、自分の心が動いていないのを感じて、とても危機感を感じています。私は、小さい頃からよく妄想をしていたり、本を読むのが好きだったので、想像力はあると思っていました。でもそれも高い自己評価でした。
ちのにも猫にもしっくりこない、どっちもできない、役になれないと感じていました。
たまたま、お父さんの車に乗せていただくことあり、その理由が、客観性がないからだと知りました。自分以外になることができない、ずっと地のままでいるからだとお話の中から気が付きました。働く上や社会に出るうえで、それは良くない結果しか招かない。自分だけに籠ったり、自分だけでいないで、その場その場に合わせて、適した姿でいられるようにならなければと思います。
去年のコンサートで、あゆちゃんが、
「いつもの姿勢がステージにそのまま出るだけなんだよ。早い動きができるようになりたいなら、日常から早く動いたらいい。そしたら変わるよ」
と教えてくれました。日常が変わったら、ダンスも早い動きになって、あゆちゃんの言ってくれた言葉を実感しています。
ちのになりたい。ちのになるには、日常生活からちのを演じなければいけないのだと思いました。臆病な自分、へにょへにょな自分はやめます。強くて、勇気があって、正義感のある、ちのになります。
少し前までは、(ねこにも、ちのにもしっくりこない私なのに、お父さん、お母さんはどうして私を主要役者から外さないんだろう、隠れたい、他にできる人はいるのに)と後ろ向きな気持ちになっていました。(今は思っていません)
神様、お父さん、お母さんがくださった機会をありがたく、受け取って、ちゃんと自分を成長させる機会にします。
まだ、ちのには、程遠いけれど、コンサートを経て、私がちの、ちのが私と言えるくらいに成長したいです。
