10月25日
I’ll be I was born to be.
自分が生まれもった役割をそのまま、やり通す。それは初めから決まっていて、それには少しでも抗うことはできない。
あゆちゃんがフレディ・マーキュリーの言葉の一つを教えてくれました。
『The show must go on』の歌詞をあゆちゃんが和訳して、音楽室で朗読してくれました。
「何を探しているのか それさえわからなくなる時があろうとも 探せ、探し続けるのだ」
「心の内側が壊れそうな時も メイクが崩れそうな時も 僕は笑顔を、僕の生き様を 決して崩しはしない」
「たとえ何が起ころうとも 俺は全て運命にゆだねるさ」
中でも特に心に響いた歌詞の一節です。
今、心の中で、説明できないような何かを感じているときがあります。それは自分でも得体のしれない何か。説明がつかないから、自分でもよくわからないのです。爆弾級の自尊心が疼いているのかもしれないし、葛藤、競争心かもしれない、はっきりしない、大きくのしかかる何か。
それに影響されて不安定になったり、それこそ心が壊れそうになる、全て無いことにしてわからないを前面に出すか、引っ込んでしまいたくなるときもある。
でも、大人はそんなことしない。みんな心の中は不安や心配が渦巻いている。けれど大人ならばそれを見せないように振舞う。と以前お父さんが教えてくださいました。
伝説の主役とも言われたフレディやクイーンでさえも、心の内側が壊れそうになることがある。けれど、投げ出したり、やめるなんて選択肢は無い。ショーを続ける。続けなければならない。笑顔、生き方を決して崩しはしない。
その覚悟。一生治り続けるという覚悟を決める。どんなことがあっても、運命にすべてゆだねる。生まれ持った役を、やりすぎだといわれるほどに、やり通す。
私も、そんな生き方が義務付けられているのかもしれない。そう思いながら、ショーを続けていく人生を歩んでいくべきなのかもしれない。今も、これからも、ずっと。
和訳と、自分が重なる部分があるように感じます。
自分なんかとクイーンを一緒に考えることは恐れ多いですが。この曲が書かれた頃、私はおそらく新生児か、まだ生まれていない頃だと思います。それが今になって、ずっと前から待ってくれていたかのように重なり深く共感できる部分があるのは、クイーンが曲を通して伝えたかったことの普遍性、無視することのできない痛み、あるべき世界の形、理想が今も強く求められているものだからかもしれないと思います。
「show must go on」の種類の人じゃないと今ここにいない。摂食障害になっていないよ、とあゆちゃんは仰っていました。摂食障害なんかになって、人間関係も家族関係もズタボロで、人間らしい生活が送れなかった残念感。それだけが摂食障害じゃない。よりよく生きていきたいという願いを持ち続けて生きていけば、自分の果たすべき役割、役をやり通して全うすることができるのなら、私は摂食障害になって光栄だ、そうあゆちゃんの言葉で思いました。
彼はこの曲を歌う時、自身の余命をどう思っていたのだろう。どんな景色が見えていたのだろう。死ぬことに対して怖さを感じていたのだろうか。彼は、どんなことを思っていたのだろうと思いました。
「近いうちに、僕はある局面に差し掛かる」
「僕の魂は蝶の羽のように彩られ 過去の物語たちは 滔々と語り継がれ、生き続ける」
「僕は飛ぶ、友よ、僕はまだまだ高く、高く飛んでみせるさ!」
この歌詞に胸を打たれ、涙が出ました。
今私はこの世界で生きていて、摂食障害になって、なのはなファミリーに来て、お父さんお母さん、なのはなに命を救ってもらいました。けれど今も少しでも気を抜くと、従来の価値観、利己的な方へ傾きそうになることが今もまだあるのが現状です。どう生きていきたいのか。「show must go on」で生きていく覚悟。仲間と伝えたい。目指したい場所、願い。仲間と一緒にそこを見る。そう思う。向かっていく方向は皆同じ。探し、探し続ける。心の内側が崩れそうな時も、笑顔をやめない。生き様を決して崩さない。たとえ何が起ころうとも、全て運命にゆだねる。そう、フレディは死の間際までも表現者として命がけで、私たちに残してくださった。
フレディの魂は今も生きている。そう感じた、今日の『The show must go on』。さらに深く、深いところで表現する意思を突き詰めていきたいです。
