10月7日
書きたいことが山ほどあります。
今日、保育園の運動会があり、行かせていただきました。一言、一生懸命な姿ってどうしてこんなに輝いているのだろう、と思いました。全力で走っている。保育園の先生にハイタッチ、抱きついていく。保護者の方に手を振る。どの光景も、温かい感情がわいてきました。
そして、たけちゃん、ちーち、ゆりちゃんの姿。3人の頑張る様子を、一瞬たりとも見逃さないように、目を凝らして見ました。なのはなに来たとき、この曲を大声で歌っていたな、このダンス踊ってみせてくれていたな、廊下を走るのも速くなっていたな、プログラムを配ってくれるほどに運動会を楽しみにしていたな。それを思うと、3人の動きを見ただけで涙がこみあげて来てしまいました。親ばかってこんな感じかもしれない、と思うほど、たけちゃんが一番上手だった、とか思ってしまいました。たけちゃんが玉入れのお片付けで一番にお利口さんに座っていたのも、ちーちが楽しそうにダンスをしていたのも、自慢の息子のように感じられました。
元気も、やさしさも、パワーも、たくさんもらいました。今日運動会に行かせてもらって本当によかったです。
最近、新しいOMTがスタートしました。お父さんがこのOMTのねらいについて、
「人を正しく評価できない。うちにこもって人を見ることができていない。そこから抜け出すために、人をほめることでどんどん評価を正しくできる人になる」
と教えていただきました。まさに、私のために用意されたかのようなOMTです。いろいろなことを感じました。一言で言って、私は少しだけ、今までの世界の見え方が変わった気がしています。
人をほめる側になったとき、衝撃を受けました。こんなにも言葉が出ない。「この人が大好き、すごいと思う」というところがたくさんあって、それを分かっているはずでした。でも、それを言語化できない。具体性がない。目を見て話せない、おどおどしてしまう。ほめるだけなのに、「こんなこと言ってこの人は傷つかないだろうか」と不安になり、言うのをためらい、言葉につまる。いかに普段、自分が人と向き合っていないか、無関心になって自分のことで精いっぱいかが痛いほど分かりました。やっぱり私は分かった気になっていたな、と思います。結局、誰の事も理解できていなかった。理解し理解される関係を築こうにも、自分が理解しようとしていなかった。信頼関係ができない理由はそこにあるのだろうと思います。
逆にほめてもらう側になったとき。幸せでした。多少は誇張している部分もあるというのは承知の上ですが、みんなからもらった言葉の一つひとつが本当にうれしかったです。日が経った今でも、誰がどういう言葉をかけてくれたか、鮮明に思い出すことができます。生きていてよかった、と思えるものばかりです。たとえが悪いのは分かっていますが、大げさではなく、今日が命日でもいいと考えてしまうほど、もらったものが素晴らしすぎました。私は、この人に嫌われているかもしれないという被害感情が、自分が考えていたよりも大きかったです。その人が、私のことを、具体的にほめてくれている。根拠をもって話してくれる。驚きました。避けていた、苦手意識をもっていたのは私の方でした。
また、他者のことだけではなく、自分自身のことも正しく評価できていなかったことも分かりました。正直、みんながしてくれるコメントが、私という人間に向けられているとは思えなかったです。でもみんなの目には、私はそう映っている。少なくとも、良い面に関しては、みんなが見つけてくれている。私自身がそれに気づかず、自己否定を繰り返していた。
OMTをとおして、「もっと人と深いコミュニケーションをとって、具体的にほめるところを見つけるべき」「これだけいいところを見出してくれるなのはなのみんななら、話すのも怖くない」この二点に気づけました。そのことで、もっと関係をとりたい、自分の駄目さも出して自分やみんなのことを理解したいと思うようになりました。お父さんのねらいとしている考えに沿った考え方なのかはわかりません。でも、少なくとも、OMTをしてから私は窮屈さというか、恐怖感というか、そういうものがちょっととれた感じがしています。なのはなのみんなの存在が、近くに感じています。もっともっとOMTを続けたいです。
まえちゃんが、「SNSへのサービス精神が強い!」とほめてくれたので、これからも、カメラを向けられたら全力でinterestingなものを提供します! 笑
