8月28日
今日は1日、桃の秋期剪定を行いました!
目的は、徒長枝を切断し、日当たりを良くすること。背丈辺りの、低めの太い枝を切りました。
私はりなちゃんとペアで、りなちゃんがひとつひとつ教えてくれました。
枝には主枝と亜主枝があること。枝は葉芽の直上で切ることで、養分が回りやすくなり、枯れ込みを防ぐことができること。背中側から出ている徒長枝を積極的に切ること。冬に大きい枝を切ると、春に木が暴れてしまうため、秋のうちに大きい枝を切る。冬は秋には切らない、細々した枝を切る。
今日は、その大きな枝を剪定ばさみとノコギリでバサッと切っていきました。
2巡する予定の、1巡目です。
自分の小指くらいのやや太めな枝でも、剪定ばさみではバツンと切ることができて、それが衝撃的でした。ノコギリを鞘からしゅっと出して、勢いよく切り倒して、また鞘に収める様は、これまた侍の気分を味わってしまい、すごく楽しかったです。
徒長枝を切った瞬間、それまで陰になっていた部分にぱあっと光が差して、瞬間的に日当たりが改善されたのを感じました。
剪定と同時に誘引をして、同じ徒長枝でも誘引をして、「生かす」枝にすることができるということも学びました。剪定した枝の一部を切り取り、それを杭にして地面に打ち込み、マイカ線で結びました。
ひとえに徒長枝といっても、全てが全て切るわけではないのだなと思いました。
バツバツ切っていくのが楽しくて、もっともっと切りたくなってしまうから、欲を抑えて、2巡目に回す枝も見当をつけておきました。
数をこなしていくうちに、自分でも「これは切るべきかな」という枝が目につくようになり、りなちゃんが「これは切りたい」といった枝と一致することが増えてきて、それが嬉しかったです。剪定はスムーズに進み、今日一日で17アール、26アール、新桃、池上、山、古畑、奥桃の、夕の子以外の一巡目を終わらせることができて嬉しかったです。
今週、来週とか、今年の夏、秋、とか、そういう短いスパンではなくて、桃の栽培というのは、今後1年、3年スパンの、長いものなんだなと思いました。育てる、ということの意味合いが、ただ収穫するために育てる、というシンプルなものじゃなくて、長い目で見てプランを立てて、その効果をじっくり味わいながら、自分の手で育てていく、大きくしていくんだなと思いました。
幼木だった小さな木も、こうして大きくなっていて、今大きくなった古い木も、こうして生長していったのだな、と思いました。
剪定も表現手段のひとつで、どんな木に仕立てるか、というのも人それぞれで、芸術のひとつとも言えるのかな、と感じました。
一日熱中して打ち込むほど、集中力が増していくような気がして、楽しかったです。
そして、今日は大切な桃メンバーのひとりである、つきちゃんのお誕生日で、つきちゃんがお休みでなのはなにいてくれて、一緒に作業できてうれしかったです。
つきちゃんはいつも気持ちを沿わせてくれて、共感してくれて、優しいなとすごく感じます。桃のピークの日、作業の帰りにつきちゃんと話した日のことがすごく印象的です。そのとき私は初めて経験した桃のピークでした。
めちゃくちゃな私の、今感じていること全部を話したとき、つきちゃんが全部を共感してくれて、つきちゃん自身が、自分もこうだったけれど、こういうことがあって、こう変われた、ということを話してくれました。
そのときに見た星空は本当に綺麗で、プラネタリウムでよく見ていた人工的な星空よりもずっと明るくて、ずっとここにいたいと思いました。
どんなときでも、いつも変わらない笑顔と優しさで、なのはなのために動いているつきちゃんは本当にかっこいいです。
桃の作業にも、お仕事に行く直前まで来てくれていて、夜遅くても、土日出勤でも、いつも笑顔を絶やさず、なのはなの気持ちでいることができるつきちゃんの強さを尊敬します。
目配せをしただけでも、お互いの言いたいことがわかってしまって、しょうもないことで笑い合ったり、真剣に話したり、全てを受け入れてくれるつきちゃんの器の大きさ、優しさに感謝しています。
つきちゃんは今の桃作業のノウハウをつくりあげてきた一人でもあって、今自分たちが効率良く、質の高い作業ができているのは、つきちゃんたち先輩がたのおかげだなと思います。誰かに教えてもらったわけではなくて、自分たちでより良い方法を考えて、開拓していくつきちゃんがかっこいいなと思うし、私もそんな一人でありたいと思います。私もつきちゃんみたいになれるよう成長していきたいです。
今日一緒にフルートの基礎練ができたこともすっごく嬉しかったです。
本当に大好きです。いつもありがとうございます。
夜は、今季最後の浴衣選びがありました。
今回は、歳の若い者順。ぐぐっと心惹かれる浴衣があり、それを手に取ると、オッケーをいただきました。深い紺色の、落ち着いた浴衣でした。あゆちゃんが、水色のきらきらの帯を選んでくれて、その組み合わせがすごく可愛かったです。
また浴衣を着られることが嬉しいです。
お仕事組さんたちが、土曜日にイベントを企画してくださっているようで、それがすごく楽しみです。楽しみが次々に訪れる、なのはなの日常は充実感いっぱいで、本当に楽しいです。
話は変わるのですが、今私は読書に夢中になっています。
西加奈子さんの小説を好んで読みあさっています。
彼女の本に登場する主人公は、どの本も、いつも私の人格のどこかをマークしていて、読むたびに、全て知られているような気分になります。主人公と自分が共感しやすくて、読みやすく、そして何よりユーモアがあって、活きが良くて、面白いです。
そして、最近気づいたことがありました。
それは、私はあまりも正論を求めすぎていた、ということです。
何が正しいのか、何が真実なのか、それをずっと求めていて、無機質な数学の公式のように、絶対的なイコールの答えが欲しかったと思います。それは倫理的な、人はなぜ生まれ、死に、どこへ行くのかというスケールの大きいものから、摂食障害について、日常について、今日一日について、自分について、あらゆる側面で、1つ、正しいのは何なのか。それがいちはやく知りたくて、正論を貫きたくて、正論だけを、自分にも、他人にも強要しがちだったと思います。
今まで信じてきた枠組みが一本筋だったから、必要な答え、世界の真実はたった1つに決まっている。それ以外はありえない。という、正論の潔癖的な、融通の利かなさがあったような気がします。
最近読書をしていて、そういう今までの堅さ、について思うようになりました。
それぞれの本には、猫が言葉を理解できて、人と会話ができるとか、100年以上生きている猫がいるとか、人肉を食べたことがある、とか、真実かどうかに関係無く(事実、フィクションである)正論では無いことだらけ、真実では無いことだらけ、いろんな考え方があって、いろんな解釈の余地があって、いろんな生き方があって、いろんな人がいる。けれどそれまた、事実に基づいているわけではない。
でも、それでいい。正しい答えを知ろうとしなくていい。複数の答えがあっていい。複数の考え方があっていい。柔らかく向かっていって、柔らかく考える。そういうスタンスで良いのかもしれないな、と思いました。
いろんな本を読んで、いろんな考え方を知って、いろんな場所に行って、いろんな人に出会って、世界が広がっていくことが、すごく楽しいです。
そう、もっと肩の力を抜いて考えることができたらいいな、と思いました。
明日の桃作業は、細々した作業をたくさん行う予定です。光合成細菌の培養やら、ネット回収、溝さらい、剪定などなど。
明日もできることを頑張ります。
