「対等であることの意味」 つき

4月17日(木)

 

 毎日、小さな発見や気付きがあって、書き留めたいと思っても書ききれないことがあるのですが、できる限り書いていこうと思います。(これまでと重複してしまうところがあったらすみません)

 私は、被害感情とか自己否定はそこまで強くないと思っていたけれど、何気なく被害感情になって、人のことを苦手だと思ったり、嫌な気持ちなっていたことがわかりました。
 自分の判断基準で人のことを評価しようとしても、もともと持っている自分の基準が間違っているから、いくら頑張って評価しようとしたところで間違ってしまう。自分じゃなくてお父さんの判断基準を自分のものにしていくと、人に対する感じ方が180度変わることがありました。
 何気なく注意されたり、こうしたらいいよ、と善意でアドバイスをくれても、なんだか受け入れ難く感じてしまう人。なんで○○してくれないんだろう、と気を遣えないと感じてしまう人に対してイライラする気持ち。怒っているんじゃないかと恐れる気持ち。

 そういう人に対してのマイナスな気持ちは、その人のことをちゃんと評価できていないからで、自分がこうしてほしいという人に求める気持ちの方が強かったからなのではないかと思いました。
 お父さんだったら、その人の行動や言葉をどう受け取って感じるかという基準で見ると、ただ一生懸命であったり、ただせっかちなだけだけで、私のことを攻め立てようとした言動ではないということが客観的に見えてきました。だから、自分がその人に対して嫌な気持ちになることもないし、むしろその人の善意の気持ちを素直に受け取って、アドバイスもありがたく受け入れられるし、好きになれました。こう感じたことで、私は自分が苦手だと思ってしまった人に対しては嫌なところを見てしまっていたことも分かりました。これだけでも、関係が取りやすくなったと感じます。

 お父さんに対しては、お父さんは立派な人だという漠然とした気持ちとは裏腹に、お父さんを信頼、尊敬できていなくて、受け入れにくいことは流してしまう。持ち上げすぎるところと、軽視するところがぐちゃぐちゃだったことが分かりました。

 だから、お父さんに対して心を開けなくて、完全に委ねられなかった。自分の間違った判断基準でお父さんを取り入れようといくら努力したとしても、そこで自分が出てきて取捨選択しているから、受け入れて成長できたところがあっても、なんだか生煮えな感じで、大事なところを落としていたんだと思いました。

 お父さんを持ち上げすぎて、近寄りがたい。評価を求めてしまう。いざとなったらお父さんに頼る。ただ受け身でいるだけでした。自分が成長できるための師匠ではなかったから怖かったし、距離が遠かったです。ざっくり言うと、私はお父さんが本当に手の届かないくらいすごい人、別次元の人と思って、そんな人みたいになれるはずがないし、そうなるのは大変過ぎると、諦めていました。けどそれは違いました。

 確かに、お父さんはすごいです。でも、お父さんも人間で、努力して答えを見つけて教えて下さり、いつも私たちを材料に一緒に考えてくださっています。

 あゆちゃんも、私は別次元の人だと思って、変に謙遜しすぎたりしていました。でもミーティングのときや集合の時、あゆちゃんも一緒に考えて私たちと同じところ、同じ土俵に立って考えてくださっているんだと思いました。
 対等とはそういうことか、と思いました。上下関係で見ているから、受け身でしかいられなくて、おどおどしてしまっていました。あゆちゃんがいつも、謙虚で、絶対に偉そうにならないで、でもみんなをまとめてくれて、みんなから好かれる存在でいてくださるのは、対等だからなんだと思いました。

 だったら私もちゃんと対等な存在として、お互いにプラスの影響を与えることができる存在でありたいと思います。そうなれるように、お父さんを師匠として、成長する。

 あまりうまく言葉にできていないのですが、対等であることの意味や、それによって日との関係の取り方が変わってきて、感じ方も変わるんだと思いました。