
12月22日のなのはな
子供たちがきちんと大人へと『心の変態』を遂げられる新しい世の中の仕組みを作り、昆虫達との約束を果たしていく。
それはとりもなおさず、私たちが摂食障害から回復し、よく生きていくこと。
私たちがウィンターコンサートを作り上げる過程で見つけた答えを、3時間半の音楽劇で表現しました。
演奏、ダンス、コーラス、演劇でつないだ、物語。
フィクションだけれど、フィクションではない、
私たちが本当にこの世の中で実現していきたい世界を、お客様に伝えることができました。
ウィンターコンサートは大成功でした。
たくさんのお客様がホールに来場くださいました。
演奏の1曲1曲、劇の1シーン1シーンを、表現する私たちと同じように真剣に自分のこととして受け止めてくださる方がたくさんいました。
このコンサートの成功は、当日だけの瞬間的なものではなく、物語で得た気づきや発見が、人の心の中にじんわりとしみ込み、そして深く広がっていく始まりになると思える成功でした。
自分自身にとっても、このコンサートによって生きるべき方向がよりクリアに見えたからこそ、ここを始まりとしてその一本道を見失わずに、まっすぐ、着実に進みたいと思えるものでした。
このような手ごたえを得られたことが、とても嬉しかったです。
ともにコンサートを作り上げた、なのはなファミリーの仲間が100人近くもいました。
いま一緒に生活をするみんな、コンサートのために帰ってきてくれた卒業生、そしてなのはなファミリーの活動に共感して集まってくださった方たちです。
照明チーム、動画・写真撮影チーム、大道具・小道具、受付やロビーの喫茶など、準備の段階から多くの人が集まりました。

「こうした日々の積み重ねが、これだけの舞台につながっているのですね」
はじめてなのはなに来て一緒に準備を手伝ってくださった方がこう言ってくださいました。
当日のきらびやかな舞台を作るのは、毎日の生活であり、そしてコンサートのために積み上げてきた練習にあることを、感じ取ってくれていました。
根底にあるのは、よく生きたい、という願い。
摂食障害になった自分たちが、なぜコンサートをやるのか。
ただ症状がなくなればいい、自分が楽になればいい、ということではありません。
この世の中で果たすべき役割を見つけたい、と私たちは思ってきました。
その役割というのは、生きにくさを生み出す、いまの仕組みや社会の在り方を変えていくこと。
それがなければ、私たちは本当の意味で自立して生きていくことはできません。
真面目に、誠実に、自分たちの回復に向き合い、その延長にある新しい世の中を思い描いていきたい、その世の中を実現していきたい。
コンサートを作る過程で自分たちの役割を見定め、そして練習の過程で生きる姿勢を磨いていきます。
そんな気持ちを確かに感じてくださる方がいることが、本当に嬉しかったです。
コンサートの準備をしながら、手段や、場所は違っても、同じ方向を見ている人に出会えるという確信が強くなっていきます。
劇のセリフではないけれど、進む方向さえ間違っていなければ、きっと願いはかなうし、仲間は広がっていく。お客様にも、きっと伝わると思いました。
そして、もしも自分と同じように生きることの意味を見失った人が会場にいたら、そのたった一人の心に届けること、それが自分の役割なのだと信じて、本番のステージに立てました。
今回のコンサートは、摂食障害からの回復、私たちの生きる意味について、そして自分たちの実践している、あるいはこれから実践していきたいことが、物語のすみずみまで濃く盛り込まれています。
テーマである昆虫の危機・農薬の問題から、森林伐採、温暖化、私たちの回復が、ひとつの答えでつながっています。
その答えは、なのはなファミリーを20年運営してきたお父さんお母さんにとっても、私たちにとっても大きな発見でした。
そして、その答えを実践する方法として、なのはなファミリーが目指すソーシャル・フィールドへとつながっていきます。
大きな発見。それは虫たちの世界から得たものでした。
昆虫たちは、幼虫から成虫になる過程で一度さなぎになり、姿かたちも、食べるものも、行動範囲もまったく異なる変化を遂げる、“変態能力”を身に着け、地球上で繁栄をしてきました。
人間にはない、子供と大人で、まるで違う生物になったかというほどの大きな変化。
でも、本当は人も同じなのではないか?
大人になるというのは、子供時代に培った生き方考え方そのものを作り直すことではないのか?
イモムシの行動範囲ではなく、蝶の行動範囲で考え、生きること。
自分だけが大事、自分の家族だけが大事、という考え方から変わり、血縁関係のない人とつながりを持って生き、周りの人や他の国の人、次世代、次々世代の利益のことを考えて生きることが、本来あるべき成熟した大人の姿なのではないか。

私たちは、イモムシから蝶になりたいと願って、なりそこねてしまったから摂食障害になってしまったのだとこの物語を作ることで気づきました。
だから、回復して自立することは、イモムシから蝶へと『心の変態』を遂げることなのです。
生き方、価値観、つまりはソフトウェアをまったく新しく作り変えて、自分と自分の身内(半径5メートル)の損得から、空間的にも時間的にも広く世の中ためになにができるかという2000キロの考えを持つ大人になることが、心の変態です。
摂食障害のみならず、学校にいけない子供たちや、様々な依存症、生きにくさをうっすらと(あるいは強く)感じている人たちは、イモムシ人間でいたくない、蝶として羽ばたきたいという願いを持っている人たちなのです。
今の社会の普通(多数派)は、イモムシ的な発想で成り立っています。自分だけは損をしたくない、自分の家族が大事、あるいは自分の国だけが大事……と。
その半径5メートルの考えが、いじめや、ひどい犯罪や、環境破壊や、温暖化、そして昆虫達を絶滅させる農薬の多用につながっているのです。

昆虫の絶滅を防ぐのも、温暖化を止めるのも、自分たちの生きにくさを変えていくのも、『心の変態』というひとつの答えの上にありました。
お父さんお母さんと脚本を作る中で、みんなと練習をする中で、この答えにたどり着きました。
今年のテーマは『昆虫』と決まり、物語を生み出すにあたって昆虫について調べ始めたときには、よもやこのような発見に出会うとは思わずにいました。
けれど、その答えは私たちに発見されるのを待っていました。
あゆちゃんが練習のときに、「本気で求めたら、その求めるものが正しいものであれば、必ずそれは手に入るよ」と話してくれました。
脚本で書かれた答えも、本気で求めていたからこそ、見つかったのだと思います。
私は、この音楽劇で“あさぎ”という精神科医の役を演じました。
不登校の子、ギャンブル依存症の人、摂食障害の子がつぎつぎと訪れる精神科。
あさぎは、永久に増え続けるのではないかと思えるほどの数の患者を必死に見る毎日の中で、自分はこのまま仕事を続けてどこに向かっているのだろうか? という疑問を抱きます。
自分の仕事は、果たして世の中のためになっているのだろうか? 私は精神科医ではないけれど、抱く思いはあさぎそのものでした。
職業というのは手段にすぎないので、どこでどのような仕事をしていても、自分の果たす役割はこれでよいのだろうか? という不安や迷いにとらわれることは同じようにあります。
仕事だけではなく、本当に回復し自立するとはどういうことなのか。
私の心が本当に求めていることはなにか。
それは私もずっとずっと求め、考えてきたことです。
あさぎには、大学の後輩のちぐさちゃん、その友達のもえぎ君という仲間がいます。
年齢は離れていても、自分の人生に対してこのままでは前に進めないという気持ちを同じように抱く仲間。
私がなのはなに来て出会ったみんなとの関係を同じようなつながりが3人にはありました。
そして3人は、17世紀のベネチア共和国のお嬢様との出会いも果たします。
貿易国として世界をリードする経済力を持ちながら、現代の日本と通ずる未婚少子化で滅んでいったベネチア共和国。
お嬢様は、ベネチア共和国でたった40家族しかいない貴族の身分として生まれますが、自分たちの利益を守るために生きることに疑問を感じ、こんな世界が続くわけがないと強く思います。
ばあやの勧めで、お婿さん候補を見つけるために、未来人がもたらしたiPhone27で現代の日本にテレポートしてきたお嬢様は、あさぎ、もえぎ、ちぐさの3人に出会います。
時代を超えて、国を超えて、「この世界の仕組みに乗って生きていたくない」という思いでつながった4人は、昆虫の世界に迷い込み、人類の未来をかけて人間がこれからどう生きていくべきなのかを探す旅に出ます。
みつきちゃん演じるもえぎくんの、みんなをしっかりとつなぎとめる優しさと明るさ。
そなちゃん演じるちぐさの、聡明さやどこまでもまっすぐ素直に生きる美しさ。
2人そのものだなと感じながら、練習も本番も旅をしていました。
みつきちゃんがどんな時も前向きに、あきらめずに自分の演技に向き合い、そして準備や練習の過程を途切れることなくずっと支えてくれました。
そなちゃんの甘えのない姿。役割に正面から向き合い、そしてなのはなファミリーでの日々をまっすぐに受け止めて1日1日、そこにある幸せを確かに手にしながら前向きに進む姿を美しく思いました。
そして勇敢で、正義心が強く、おちゃめな一面も持っているお嬢様。
やよいちゃん演じる魅力的なベネチアのお嬢様です。
お嬢様がいなかったら、物語で4人は人類が目指す答えにたどりつかなかったです。
そして、お嬢様演じるやよいちゃんがいなければ、演劇チームの日々の進化はなかったと思えます。
役と現実の境目がなくリンクさせながら、役者チームとして4人で成長できた時間がかけがえのないものでした。


私が演じるあさぎは、昆虫好きのお医者さんです。
自分の名前の由来でもあるアサギマダラの生き方に、あさぎは深い憧憬の念を抱いていました。
無意識なのか、あさぎの心の奥にどこまでも自由に、勇気をもって2000キロの世界に飛び立ち、2世代をかけて南の島と本州を行き来するアサギマダラの生き方を求めていたのだと私は思います。
私も、今回の脚本を作る中で、アサギマダラの生態を詳しく知りました。
世界で2番目に長い渡りをする蝶。自分の生まれ育った半径5メートルの葉の世界ではなく、イモムシからさなぎ、そして蝶に変態し、2000キロの世界に飛び立つアサギマダラ。
自分だけ、自分の子供だけが安全に生き延びるための生き方ではなく、種としてどう生きるかが本能に組み込まれているのが昆虫やその他の自然界の動物なのだと思います。
あさぎがアサギマダラへの愛を語るとき、(私もきっとアサギマダラに憧れるような思いを子供のころから抱いていたのだろう)思えました。
イモムシから蝶になりたい、と。
演じていて、摂食障害になったことを誇りに思う瞬間が何度もありました。
摂食障害になった私は、アサギマダラに憧れる心、広い視野を持ちたいと自分も持っていたのだ、それは誇らしいことなのだと思えました。
さて、時空を超えて出会った4人は、昆虫たちが未来について考える会議(昆虫会議)に紛れ込み、座長のクマバチからミツバチを絶滅させて人間を滅ぼすと言い渡されます。
あさぎは、「僕たちに時間をください、僕たちがなんとかして人間の生き方を変えるようにします」と訴えます。
クマバチは、猶予は1年だといって、4人を解放します。
今回のコンサートの見どころのひとつが、カラフルな昆虫たちです。
クマバチ、ミツバチ、フンコロガシ、蛾、蠅、テントウムシ、クワガタ、蟻……。
衣装考案から、演技まで、昆虫チームが一丸となって作り上げてきた昆虫の世界。
お客様は、きっと自分のお気に入りの昆虫をこの劇の中に見つけて帰ったのではないでしょうか。
昆虫の様々な生態を深く調べ、それぞれが演じる昆虫としての考えを想像し、昆虫が持つ人間への思いを突き詰めて考え、自分たちの生き方を顧みて、演技に投影させてきました。
そうして演じたことで、昆虫たちの訴える言葉は、多くの人に届いたと思います。
すにたちゃん演じるフンコロガシは、コミカルな演技の中にフンコロガシが果たしている役割への誇りの高さを感じさせ、客席からは笑いと大きな拍手が起きました。
コンサートで演技をしていて印象的だったことは、私たちの伝えたいことが色濃く込められたセリフに対して、「そうだ!」という共感の声や拍手がたくさん起きたことです。
それは、シーンが終わったから、曲が終わったからというお決まりの拍手ではなく、具体的な言葉一つひとつ、メッセージに対して帰ってくる反応だと感じました。

前半ラストシーン。
「人間さえ滅ぼすことができたら、昆虫や動物、植物は全部助けることができるんだ!」
このクマバチのセリフに、拍手が起きました。
会場全体からではなく、数人だったように感じます。
その何人かの拍手というのがとてもリアルなものでした。
お客様が、自分のこととして物語に入り込み、自分がこのセリフに共感する、そうだ、そうだ、と自分の意見として送ってくださる拍手でした。
それはまるで、舞台上の演者とお客様が1対1のやりとりをしているかのようでした。
クマバチのくれた1年の猶予。
お嬢様、もえぎ、ちぐさ、あさぎの4人が「僕たちでなんとか食い止めます」と昆虫達に約束したとき、客席中から、わっと大きな拍手が起きました。
客席の方と舞台上で、同じ人間としてこれからなんとか答えを見つけていく仲間としてつながったと感じました。
客席から、がんばって答えを見つけよう、見つけてくれ、と託されているような思いになりました。
私はそのとき、本気で答えを見つけに行かなくてはという使命感を持ちました。
コンサート後半、4人は昆虫達がどのように危機に瀕しているのか、農薬や除草剤の歴史や現状を調べていきます。
農薬がミツバチたちを苦しめ、実際になのはなで作る果樹や野菜にも打撃を与えていた事実がありました。
私たちにとっても、切実な問題がそこにはありました。
無自覚に、昆虫達を苦しめ、自分たちの首も絞めていたということがわかり、実際になのはなでもどうしたら虫に優しい防除ができるかを考え始めるきっかけとなりました。

そして、物語の中の4人も、虫や生き物とどう共生していくのかを考えていきます。
脚本を作る中で新しい知識を得ていったのと同じような過程がそこにありました。
昆虫は、天敵から逃れ、子孫を残すために変態能力を身に着けた種が生まれ、さらに虫同士の助け合い、樹と虫の助け合い、微生物との助け合いの中で生きています。
利他という言葉なんてなくても、本能的に種を超えて共生して生きてきた世界があります。
それは自然界という厳しい中にある、美しい生き方に、私ははじめて触れ、その生態を知るだけでなぜだか涙が出ました。
美しく生きるというのは、個や、身内という狭い世界の利益にこだわらない、執着しないことなのだと思いました。
私たちにとって、大事なシーンのひとつが、後半の主人公4人のモノローグです。
昆虫達が絶滅の危機に瀕しているのも、自分たちの生きにくさも、根っこは同じなのだということにつながるシーンです。
私たちは、見えないルールに縛られていて、知らず知らずのうちに苦しくなっている。
もえぎは語ります。
毒性の強い農薬だとわかっていて、誰も使うのをやめない。
それは正しいことじゃないのに、大きくて複雑な仕組みの中で、埋もれて、まぎれて、どうにもならない。それは、自分が感じてきた無力感に似ている、と。
ちゃんと生きたいのに、だれもどうしたらちゃんと生きられるのか、誰も教えてくれなかった。
家族はそれなりに楽しむのが上手だった。
お前も人生を楽しめばいいんだよ、と言われても、楽しむってなんなんだよ!
幼かった僕は、それがちゃんと言えなかった。
世の中の仕組みの中で、楽しめばいい、好きに生きていいと言われても、なんなんだ、と思ってきた無力感、そして流されるように何も考えないで生きるようになってしまった。
もえぎは、私自身でもありました。
この無力感を理解してもらえないことがつらかった。
それは私も強く強く感じてきたことでした。
自分だけの問題ではなく、きっといま同じような思いを抱いている人がいるはずです。
届けなくてはいけないセリフでした。
私は、もえぎ役のみつきちゃんの背中を見つめて、自分の気持ちも一緒に乗せて伝えたいと思っていました。
ちぐさは語ります。
他の人が、今の流れの中で楽しめていても、自分だけは楽しめなかった。
すべてに評価や競争がついてまわって、居心地が悪いのに、居心地が悪いよ、と言えない。
学校でも、社会に出てもそれは同じ。
その流れや枠組みから外れたら生きていけないと思わされる苦しさ。
そういう縛りが苦しい人って、きっと私だけじゃない。
もう、ルールがわからないゲームはやりたくない、いま私はそう思う。
勇気を持って、まっすぐに客席を見据えてこの言葉を語るそなちゃんに、私は心が震えます。
私たちが、こうして声を上げていくことが、必要なのだと思います。
誰も教えてくれなかった、ちゃんと生きるとはどういうことなのか、という答え。
今の流れや仕組みに乗るのではなく、新しく自分たちで流れや仕組みを作っていくのだということ。
その答えがあるから、私たちは、自分たちがどのように生きづらさを感じてきたかを、きちんと伝える役割があります。
そして、4人は昆虫達との約束を果たす答えの核心に迫っていきます。
昆虫達を困らせているのは、人間の欲。もっと領地を増やしたい、もっともっと自分たちの利益をという思いが、森林伐採や、温暖化につながっている。
私たちを縛っている見えないルールというのも、その損得勘定や欲からくるルールであること。
昆虫好きのあさぎにとって、自分の生きる道を探すというのは、昆虫たちが生き延びる道を探すことにつながるのだと気づきます。
遠回りのようだけれど、一番の近道は、欲を出さない人を作ること。
個人的な欲を捨てることができたら、虫のことも、人間の生きにくさも、すべて解決できるのだという答えに行きつきます。
個人的な欲を捨てることは、イモムシから蝶に変態するように、人間も心の変態を遂げるということ。
人間も本来は子供から大人に成長していくときに、心の変態を遂げていたのだ。
この答えは、私たちにとっても新しい発見でした。
心の変態という人間がたどるべき成長、成熟、大人になることの意味を、劇の中で伝えられることが本当に嬉しかったです。
後半は、曲の終わりだけではなく、メッセージを込めたセリフの度に、シーンが終わるたびに拍手が起きました。
真剣に生きて、真剣に伝えたとき、それを求めている人は必ずいるのだと思いました。
心の変態を遂げて、欲のない人を作るためには、どのようにしたらよいのか。
その具体的な提案、新しい仕組みは、なのはなファミリーが描く未来につながります。
あさぎも、医者としてどのような仕事をしていったらよいのかが見えてきて、視界が開けていきます。
それが、ソーシャル・フィールドです。
子供たちが、自分や自分の家族だけの幸せに執着してしまうような大人になってしまう環境で生きるのではなく、小さいうちから心の変態をすることを教えることができる場所を作ること。
農業や遊びを通して、あるいは家族という枠組みを超えて地域や社会とのつながりを通して、心の変態していく生き方を学び、成長していける環境を作ること。
私たちは、その場所を作り、心の変態をする生き方を伝える役割がある。
その子たちが大人になったとき、人間の世界はきっと変わるはず。
私たちが、摂食障害になったからこそたどり着いた生き方、そしてソーシャル・フィールドという仕組み。
私は、私が個人として治るということだけでは、生きてはいけないのだと思いました。
私もきちんと心の変態を遂げて大人になると同時に、何世代も先のことを考えて、そういう生き方を伝えていくこと。
それが、2000キロの考えを持った生き方なのだと気づきました。
心の変態という考えにとどまらず、ソーシャル・フィールドという実践の方法もこの劇で表現できたことが、私にとっても希望になりました。
なによりも私自身がソーシャル・フィールドを作るという未来に大きな希望を感じていました。
その仕組みの中にきっと自分の役割がある、自分の役割を作っていきたいと思っとき、あさぎと同じように視界が開けたのでした。
このコンサートで伝えたとき、その仕組みを一緒に実現していける仲間集めの一歩となるかもしれない、と思えました。
そして、物語はクライマックスへ。
生まれてきた意味を見つけ、自分たちがやるべきことを見つけ、さあこれから、というとき。
お嬢様が、iPhone27によって、17世紀のベネチア共和国に引き戻されてしまいます。
あまりにも突然の別れ。
「君と見つけた答えは忘れないよ!」
あさぎは、iPhone27にお嬢様が消えていくその瞬間、ただ、この一言を告げるので精一杯でした。
もえぎ、ちぐさと、3人だけが残った現代の世界。
本当は、ずっとずっと一緒にいたかった。これから、一緒に新しい世の中を作りたかった。
お嬢様と旅した時間と、一緒に見つけた答えという希望を思うことで、ぽっかりと心に空いた寂しさを振り払おうとするけれど、やはり寂しい。
さらに、追い打ちをかけるように、昆虫達が集まってきます。
猶予は1年と言ったはずだ――。
人間がイモムシから蝶へと変態するのを助ける場所を作って、昆虫のみなさんとの約束を果たそうと思っていた、とあさぎはクマバチに話します。
しかし、それで人間が農薬を使わなくなったり、森林伐採をやめようとするなんて思えない、と一蹴されてしまいます。
しかも、一人逃げ出して、3人しかいないじゃないか、と。
僕たち、私たちの答えでは、昆虫を、動物を、植物を、人間を救うことはできなかったのか。
間に合わなかったのか。
そのとき、あさぎたちに、あの声が聴こえます。
「いいえ! 逃げ出したんじゃないわ!」
たった1人でも、ベネチア共和国で貴族としての生き方を覆す生き方を貫いてきたお嬢様。
畑で額に汗して鍬をふるい、収穫の喜びを味わい、ミツバチを育てて、健康な畑を作っていたお嬢様。
周りの生き方に流されず、勇敢に、答えを強く求めてきたお嬢様。
あさぎにとって、もえぎにとって、ちぐさにとって、その声は自分たちをいつも鼓舞してくれたお嬢様の生き方そのものに響きました。
iPhone27から、姿を現したドレス姿のお嬢様。
お嬢様は、ベネチア共和国に帰ったのではなかったのです。
「私はばあやに、21世紀のジパングで働いてきますと断ってきたわ」
勝央文化ホールのお客様も、お嬢様が帰還したことに大きな拍手がわきました。
お客様も、お嬢様を待っていました。
「どこかで、誰かが、私を待っている。ずっとそう思ってきた。
私を待っていてくれたのは、この3人だったのよ」
お嬢様であるやよいちゃんは、やよいちゃん自身の言葉として、このセリフを発します。
練習の時から、毎回毎回、仲間を求めてきたやよいちゃんの言葉として出るセリフが、強く私の心を打ちました。
そして、なのはなファミリーにたどり着いた私自身も、待っていてくれた仲間がここにいたのだという思いで、この言葉の後に続きました。
セリフにはないけれど、「僕を(私を)、待っていたのはお嬢様であり、やよいちゃんであり、なのはなのみんなだったんだ!」という気持ちで、やよいちゃんの隣に並びました。
お嬢様は、虫たちに対する思いを伝えます。
お嬢様、あさぎが大好きな虫たち。
私たち人間が持つべき、生き物としてあるべき美しく潔く、強い生き方をしている昆虫たち。
「約束の1年では私たちの目的は成し遂げられないかもしれないけれど、進む方向さえ間違っていなければ、きっと昆虫も、動物も、植物も、そして人間自身も救えるはず。
だから、ミツバチを滅ぼさないで、しばらく私たちを見守ってほしい」
遠回りのようで、一番の近道として、虫のことも、環境のことも、そして人間自身が本当の幸せを感じられる生き方ができるように、心の変態ができるように、次世代の子供たちにきちんと伝えていきます。
それが、昆虫達に対して人間4人のできる約束でした。
「おい、みんな、どうする?」
座長のクマバチは、昆虫会議のみんなに問います。
昆虫たちの葛藤。
彼ら昆虫は、人間たちの無謀な行動のせいで、すでに多くの仲間を失っています。
未来をどう変えても、取り戻せない悲しい過去がある。
滅び、死んでいった仲間を思う気持ちと、目の前にいる人間たちの姿の間で、揺れます。
そのとき、昆虫界のために、先んじて滅ぼうとしていた、ミツバチが、最初に声を上げます。
「私は、この人たちがすることを、待ちたいです」
もう一度、人間たちに賭けてみよう。
決してすべてが大団円なわけではない。
でも、虫たちが種を超えて世代を超えて助け合い、たとえひとつの種が滅びることがあっても、また新しい種が生まれてくることを信じて繰り返してきた生命の歴史がある。
コンサートのラストの曲となる、『アンダー・プレッシャー』の歌詞にあります。
「もう一度、僕らでこの世界に賭けてみないか?
人間が生み出す愛に
僕らが生み出すべき愛を 信じてみようじゃないか。
愛 それはなんて古典的な単語だろうか
僕たちは 愛を持たずして 生きることなどできない
愛は、見てみぬふりを許さない
我々が己の道を変えるまで
僕らが自分のこととして この世界に心を砕くまで
これが僕らの最初で最後のダンスさ」
これは昆虫から人間への言葉でもあり、
人間からこの世界に対する言葉でもあるように思います。
私は、生まれてこなければよかった、生きる意味が分からないと、この世界へのあきらめを感じていました。
そうなってしまったのは、誰のせいかわからない。自分が悪いのかもしれない。
いずにしても、この世界に希望は持っていませんでした。
でも、そうして希望を捨てることで、自分自身の苦しさと向き合わず、逃げて目をそらすことで、安全なところに身を置いていたのも私自身でした。
誰が許しても、見逃しても、自分の心がそういう生き方は許さない。
生きる価値がある世界にするのも、生きる価値がある人生にするのも、自分がこの世界と自分自身を信じてもう一度賭けられるかどうか、それだけなのだと思います。
ラストのミツバチの言葉を聞くとき、この物語を作り出したものとして、恥ずかしくない生き方をしたいと強く思います。
クマバチが、人間たち4人に「しっかりやってくれよ」と伝えます。
お嬢様は、「私たち、大人になって頑張るから、滅びるなんて言わないで、これからも野菜や果樹の受粉を助けてね」と伝えます。
会場は、また大きな拍手でわきます。
遠くベネチア共和国からばあやの声も届きます。
お嬢様がジパングで仲間と出会い、役割を見つけたことを応援しますよ、と。
私たち4人は、昆虫との約束を交わし、そして会場のみなさんとも約束をします。
「これからは農薬をなるべく減らしていくように、少しでも二酸化炭素を減らしていくように努力をするので、ご指導お願いします。
私たちは、本物の蝶になって、羽ばたいていきます!」
実現したい世界があり、そのための仕組みづくりがあります。
その世界を作っていく道こそが、私の回復であり、私の自立です。
自分ひとりだけで完結する回復というものはありません。
自分のため、あるいは、自分の家族のための回復というものもありません。
回復とはつまり、新しい世の中の流れを作っていくことであり、次世代の人、まだ出会っていないけれど同じ苦しみの中にいる人のために、道を作ることが、私の役割であり生きる意味です。
それには多くの人の力が必要です。
生きることの答えを求めている仲間とともに回復していくという意味が、この物語にありました。
脚本を読み込み、あさぎ役を演じ、みんなと練習を積み重ねる中で見つけた答えです。
そして、コンサートを作る中で、新しい世の中を作っていく仲間が本当に増えていきました。
コンサート当日の会場で、私たちが見つけた答えと、未来への展望をしっかりと伝えることができました。
イモムシから蝶へと、心の変態を遂げられる世界を作っていく。
そして、私もきちんと蝶となり摂食障害から回復する道筋を作っていく。
これから先、自分が生きる場所とできる手段の中でこの答えをどう実現していけるかを考え、行動に移していきます。
進む方向さえ間違っていなければ、必ずその世界は実現すると信じて。
(なお)