「自分のものとして」 ほし

11月27日

 日記が書けない日もありましたが、1週間、自分の事は書かずプラスのことだけを書くとさせてもらって、気持ちもまとまって、気持ちも前のめりに過ごせるようになってきました。
 なりより、自分に埋没しないで、周りのことを考えられるようになっていくことが、すごく嬉しくて、ありがたいです。
 お父さん、ありがとうざいました。このまま、続けたいと思います。

 脚本についての作文を書きました。
 この機会が凄くありがたかったです。
 1シーン1シーンを大事に、自分のものとして落とし込めることが、本当に嬉しくて、ありがたいです。

 特に、「見えないルール」のシーンのことを書いていた時、主人公たちのセリフが、今まで感じてきた気持ちと全く一緒だと思って、涙が出てきました。

 今、正義やモラルが見えなくなり、世界が危機に瀕しているのに、どうしたらいいかわからない、自分1人が声を上げたくらいでは、この大きな世の中の仕組みの中ではどうにもならない、と、とてつもない無力感や絶望感を感じてきたな、と思うし、生きていくことに意味や希望が持てない。そう感じてきたし、どうしてなんだ、とずっと思ってきた。そう思う場面です。
 この正義もモラルもない世界で、どうしたらいいんだ、楽しめばいいと言われても、楽しむってなんなんだ、と思う気持ち。

 無理に流されて、何も考えないようにすればどうにか正気を保っていられるけれど、それは自分自身にも嘘をついていること、あるべき方にいくことを放棄していること、本意ではなくてもそうなってしまう、本当の生き方ではない。でもどうしようもできない。凄く凄く辛い気持ち。

 小学校から高校までの勉強でも全て競争や評価がまとわりついていて、それが居心地が悪い、その中から降りたいと思っても、その見えないルールに縛られて、降りることが許されず、苦しくなること。多くの人がそう苦しくなっていくこと。
 見えないルールが存在していること。

 称賛を浴びること、評価を得ること、自分たちの利益だけのために、というルールは苦しくなることで、間違っているということ。
 もう、自分も周りの人と同じようにモラル低く、自分の事だけを考えて生きてやる、と思って、身を投げ出して、「それが正解」と言われるようにしたけれど、それは無意識の中では本意ではなくて、でもそうするしかできなくて、辛さは止まらず、症状は止まりませんでした。
 どうしても、症状に気持ちを逃がしました。

 主人公たちが、これではいけない、と虫達にも優しくできる方法を見つけていくこと、生き物に詳しい知人を訪ねて、その方法を見つけようと動き出すところ、諦めないところに勇気をもらいます。

 そして、後半のシーンで、あさぎさんが、「その答えを見つけた」と、都会の子どもたちを田舎で過ごす体験を作って、その尊さや楽しさ、面白さを知って、虫に優しいようにしよう、と考えられる大人になっていくこと。
 そこに自分たちが持つ志、イモムシから蝶になるということがあると思いました。

 主人公たちの「蝶になって羽ばたいていきます」というセリフは、私たちみんなの言葉で、お父さんお母さんからの最高のプレゼントだと思いました。

 この間のハウスミーティングでお父さんに質問が出せなかったこと。
 それが、凄く凄く凄く凄く悔しかったです。
 求める気持ちだったり、どこに向かったらいいのかが分からない気持ち、希望がない、まさに脚本の言葉にあるような、その溝に落ち込んでいました。

 何を求めていくか、あゆちゃんが教えてくれたように、出はけでも自分がやっていて気持ちが良いというところを目指して、全員で高めていくこと。
 流されて何も考えないのではなく、どこまでも、良く生きることを求めて生きたいと思いました。
 また、脚本に触発されてミツバチを育ててみたい、と強く思ったし、力が湧いてくるなと思いました。

 昨日、須原さんが、蛾の羽を肩ひものついたべニヤに取り付けてくださっていました。
 伝えさせてもらった角度をつけてなおかつ調節できるようにしてくださっていて、ああ、須原さんの作られた羽なのだと思ったし、凄く感動しました。
 今朝、お会いした際に、お礼を言わせてもらったとき、須原さんが凄く嬉しそうな笑みを浮かべてくださっていて、そのことが、本当にすごく嬉しかったです。