11月18日
脚本の通しの1回目と2回目では、とても悔しい思いをしました。コンサートに向かう気持ちの甘さ、気持ちの弱さを感じました。
まず、脚本の読み込みが甘かったです。脚本をしっかりと読みこんでいないから、演劇でとんちんかんな表現をしたり、演奏でも、気持ちがつくれず、多くの音を外しました。
お父さんは、私たちのために、必要な答えを脚本に書いてくださっています。その答えを求める人は、摂食障害の人にも、摂食障害じゃない人にも、多くいます。答えを持つ人として、表現して、表現をすることで、この答えを自分の中により深く入れる、そのことにコンサートの意味があるのに、私はまた、自分を守ることに必死になって、怒られない演劇、怒られない演奏と、利他心から遠ざかっていました。音を外したくない、恥ずかしい思いをしたくない、そんな利己心いっぱいで吹く音は、音楽じゃないし、雑音でしかないです。こんな演奏は二度としたくないと、思いました。イモムシ人間をやめて蝶として生きようよと、表現する側なのに、自分がイモムシ人間になっていました。
力の出し惜しみをして、楽を選んで、責任から逃げる。人任せにする。こんな自分を、本気で変えたいです。私は、怒られる、怒られない以前に、責任から逃げているから、怒られようがありません。安全だとしても、そんなのは虚しいです。私は、全部の力を出し切ってみたいです。怖いけれど、全部の力を出し切ったらどうなるのか、体験してみたいです。
ちゃんと、誰かを守ることのできる強い人に変わりたいです。
夜の時間を使って、脚本を読み込んで、演劇のバディで、自分たちの脚本の中での役割を話し合いました。
私は、ヤナギと、ミツバチを演じます。ミツバチのシーンでは、知らないということがどんなに恐ろしいということなのか、ということを伝えたいです。私は、人がどれほどミツバチに支えられて生きているか、ということを知りませんでした。そして、農薬によって、ミツバチをどれだけ大きなダメージをあたえているか、ということを知らずに、野菜の防除をしていたことにもショックを受けました。無知がどれほど罪なことか、と感じました。このことを一人でも多くの人に伝えたいです。
また、摂食障害から回復する上での大切な答え、ラストシーンを読み、お父さんは私たちのために脚本を書いてくだっているのだと思いました。私たちにしか表現できないものだと思ったし、この脚本は私たちがやるために生み出されたものだと感じました。
ちゃんと、この脚本を自分たちのものにしたいです。