10月17日
〇やぶれかぶれの強い気持ち
昨夜は太鼓の練習に行きました。
太鼓のコンサートまで、ホールで練習できるのがあと2回となり、コンサートに向かうにあたって、私たちが太鼓を演奏する気持ちを、お父さんが話してくださいました。
やぶれかぶれで、自分たちのすべてを出して、ちゃんと生きるという決心を音にのせる。
お父さんが話してくださって、私たちはプロではないけれど、私たちにしかできない表現をステージで表現すること。
私たちはこう生きていくんだという、決心を音に表現すること。
お父さんのお話を聞かせてもらって、みんなとホールに行き、練習をして感じたことです。
『那岐おろし』の打ち出しのソロの叩き方を、自分たちで考えました。
最初の出だしの一音で、私たちのステージが決まる。
そのあとの宮太鼓のみんなが入るときの気迫、空気が決まる。
もっともっと気迫があって、気持ちを全面に外に出すこと。
大太鼓の打ち出しのソロを叩くとき、自分に少しでもこもっていたり、正しく叩けているか、リズムはずれていないか(評価)を気にしていると、つまらないものになってしまうのだと感じました。
練習の最初に合わせをしたときの大太鼓は、自分のなかでどうたたけているか、正解を求めてしまい、ちゃんと叩けているか、ということを気にして、それが音にも出てしまい、リズムは正確に叩けていても、伝わるものが薄く、もっともっと気迫がほしい。
やぶれかぶれでも、自分の気持ち(ちゃんと生きていくんだという決心)を音に乗せて、余すことなく自分のすべてをさらけ出す気持ちで、それが、自分にこもらず、そして、外向きでいることに繋がり、ステージに立ち、気持ちを作ることで変わっていけるんだと思いました。
自分から離れてステージに立つこと。
正しくリズムを叩けているか、間違ってはいないかということではなくて、やぶれかぶれで、気持ちを全面に、外に出す。ということだと、お父さんのお話を聞かせていただいて、そして、昨夜の練習のなかで感じたことでした。
かにちゃんが前で聞いていてくれて、演奏中の表情が少し怖いと教えてくれて、もっと楽観的な表情がいいのではないか、と話してくれました。
楽観的に。それは、自分にこもっていたらどうしても悲観的になってしまうけれど、外向きでいたら、楽観的になる。
そして、一緒に叩いているなのはなの仲間とともに、ちゃんと生きていくという決心をお互いにもって、それが力になったとき、演奏中に、自分が叩いているのではなくて、みんなのなかに埋もれている感覚、みんなで音を出している感覚、それが、最後の大太鼓ソロから最後のお囃子のところで感じました。
今までは、大太鼓をソロ叩いていて、ここはアクセントをつけて、そして、次は……と考えてしまっていたけれど、それは、間違ってはいけない、今自分が叩いている音がどう聞こえているかということを気にして、やぶれかぶれにならず、変に落ちついた感じになってしまっていたことに気がつきました。
最後に1回、合わせようとなって、大太鼓ソロのときに、とにかく必死で、対面で叩いているよしみちゃんの刻み、そして、みんなの声を聞きながら、一音一音に、祈るような気持ちで叩きました。
楽譜通りのアクセントになっていなかったかもしれない。でも、叩いていて、みんなと繋がっている感覚がありました。
やぶれかぶれになること。それは、相当な強い気持ちが必要なのだと感じたし、変に恰好をつけようとしたり、評価を気にしていた自分がいたことにも気がつきました。
プロは評価を気にするかもしれない。でも、私たちはプロではない、ちゃんと生きるんだという決心を音にのせて、やぶれかぶれで叩く。それが、私たちにしかできない演奏であるというお父さんのお話を聞かせていただけたことが嬉しかったし、太鼓でも、なのははのステージでも、そこが自分から離れるということなんだと思いました。
なのはなの仲間を思う気持ち、そして、まだ見ぬだれかを思う気持ち。ちゃんと生きる決心を、強く、強く、気持ちを作る、ということを自覚して、太鼓も、そして、なのはなのウィンターコンサートに向かっていきます。