9月1日
今日から9月です。
あまりにも夏が早くて、私にとって10代最後の夏はあまりにも一瞬だったなと感じてしまうのですが、お母さんから、
「また近々、浴衣を着て遊んだり、永禮さんがかき氷を作ってくださったり、バーベキューをしたりする日を作ろう」
と話してくださっていて、とても楽しみです。
私は最近、セロリの苗の見回りや水やりを1日の中で何度かさせてもらっているのですが、発芽率の低いセロリが、今年は98パーセント近い発芽率で、現在も順調に育っています。
また、植物は太陽の方に向かって伸びるため、セロリの苗も太陽の方へ向かって伸びていくのですが、1日ごとにセロリの苗が乗った台を180度回転させると、朝には東の方角にぐんぐんと伸びていたセロリが夕方には直立していて、まるでセロリが純粋な子どものように感じます。
まだ植え付けまで日があるので、上質な苗を育てていきたいし、徒長しないように水やりの頻度や日当たりも調節していきたいです。
話は変わりますが、お昼の集合でお父さんが、今の日本は戦争はないけれど、目には見えない競争、人が生きられないほど苦しむ状況がある。そして、摂食障害になった私たちは、「昨日よりも今日、今日よりも明日」と成長し続け、求め続けなければ生きられない、そうでなくては、すぐに症状がぶり返してしまうことを話してくださりました。
私はちゃんと生きられるだろうか?
摂食障害になった時、普通に食べること、普通に眠ること、普通に学校に行ったり、人と関係をとることができなくなりました。そして常に、将来に対する不安や、社会に出ることができない、普通に生きることができない不安を感じていました。
今、私は摂食障害の目に見える症状はないし、症状に対する不安や心配はないですが、これから保育者として働くと思ったり、なのはなファミリーという1つの社会の中でよく生きるという時、常に(自分はちゃんと役に立てるだろうか?)(適切な人間関係を築きながら、社会に貢献する生き方、同じように生きづらさを抱えた人たちに貢献する生き方ができるだろうか)という不安を大なり小なり、持ち続けています。
けれどそれは、摂食障害になって、良くしか生きられない私たちにとって、持っていて当たり前のような不安なのかもしれないなと思ったし、その不安に見て見ぬふりをしたり、無いものにするのではなく、どのように貢献していくか、自分はどんな風に動き、役割を果たしていくかを考えることが大切なのだと思いました。
特に今の時代は、正義が正義じゃないとされて、優しさが無いものにされて、その中で利他心を持ち続けて生きるという時、本当にしっかりと意思を持っていないと簡単に流されたり、迷わされたり、傷ついてしまうなと感じます。
だからこそ、摂食障害から回復して、利他心でよく生きようとする仲間集めをしながら生きていきたいし、分かってくれる人には深く理解され、求めている人にはちゃんと届くような生き方をしていきたいと思いました。