「気づき」 りんね

12月1日

 今日から、12月に入りました。そのことを知っているかのように、この冬初めて、あたり一面に霜が降りました。
 朝のコーラス練習で、図書室の窓から見える石生田んぼが、真っ白に覆われていて、物語の中にいるみたいだと感じました。
 朝食の席であんなちゃんが、古畑の温度計は最低3度となっていたと教えてくれました。昨日サツマイモの貯蔵を終えたり、水道栓をしっかりと閉めたり、寒さへの備えをみんながしてくれたことが、本当にありがたいなと思いました。

 今年はあまり、寒いことが辛いと感じていません。寒いと身が引き締まるけれど、寂しくなっていません。心と体の筋肉が、去年よりもついてきていることを感じ、嬉しいです。
 けれどちょっとだけ中指が霜焼けになりかけているので、早期対策をして治したいです。

〇気づき

 昨日のハウスミーティング、そしてコンサート練習の中で、今まで薄々と自覚していたものを、はっきりと感じて、自分に落とし込めたことがありました。
 まとまりがないけれど、文章にして、改めて落とし込もうと思います。

 先週の通し、ダンス練習などで、緊張したときに足元がおぼつかなくなりました。みんなでの練習も、個人練習も、できる限り頑張ってきたけれど、今まで練習してきたことを出すことが、できませんでした。
 また、踊っていて目線が定まらないことも感じました。一点を見つめることができず、目線にも、動きにも、迷いが出ました。間違い、失敗がとても多いと思いました。
 このままでは、いけない。そんな危機感を感じました。

 昨日のハウスミーティングで、別の子の質問からはっとさせられました。その子は、気持ちが前に出すぎているということ、今まで、普通の心境から外れていたから、心の幅のはかりが正常な範囲からずれている、ということをお父さんが答えてくれました。
 本来は、正常な範囲内で強めだったり、弱めだったり、感情を出していくのだけれど、その範囲がずれていると、強めにやろうとすると、あまりにも外れすぎてしまう。普通の感情表現が、できない。

 また、そうなってしまう原因は、
「自分しか見えなくなってしまうこと。心の中で他の人を気遣う、周りを見る割合がなくなってしまうこと」
 その話を聞いて、それは私にそのまま当てはまることだと、感じました。コンサートのセリフで、「自分を捨てること」が答え、という台詞があり、自分にとってそれが正に必要だと感じ、そのことについて質問させてもらいました。

 お父さんは、私が自分しか見えなくなってしまったこと、自分のことは自分で決めなければならない、と強い焦りを感じてきたことは、ずっと追い詰められてきたことが原因だと、改めて教えてくれました。
 全ては自分を追い詰めるものから逃げるため、自分を守るために、自分自分、になってしまっていたのだと。

 今になって、それは本当にそうなのだと受け止められました。
 今まで、私はなのはなのみんなと違う、と感じ続けていました。あまりにも自分のことしか考えられない、利他心がないことを感じていました。
 でも、それを止めることができませんでした。脅迫観念のように、「自分で決めた将来にならないと、全てが手遅れになってしまう。生きていくことが、できなくなってしまう」という思いに囚われていました。

 普通になのはなの中で生活しているだけで、苦しくなりました。常に焦っていました。「頑張りを褒められて、早く認められて、早く自立して、早く思い通りの将来にしなくちゃ。私は普通にはなれない。現実離れした、ぶっ飛んだ世界に頭を浸し続けていなければ、生きていけない」。そんな焦りが首を絞めるように、いつも苦しくて、穏やかな人格でいることができませんでした。
 それが間違っていることを知っていても、否定されたら、耐えられないと感じていました。私の唯一の心の支えだった現実逃避がなくなったら、生きていけないと思っていました。だから、お父さんお母さんに相談することも、できませんでした。

 そんな心境でコンサートの舞台に立つと、みんなの心の幅とずれすぎていました。「私を見て。頑張りを認めて」という自分しか見えていない表現になっていました。みんなの中で、正しい立ち位置に着くこともできなかったし、動きも全部早取りでずれていたし、コーラスの音も外れるし、表情も酷かったです。でも、あまりにも自分しか見えなかったので、周りとずれていることが分からなかったし、周りと揃えようと思うことさえ、できませんでした。本当に困った人でした。

 今、ようやくその心境が混沌の中にあったことを自覚して、日記に書くことができます。混沌から抜け出して、憑き物が落ちたかのように、楽になりました。
 私は確かに、自分自分の、視野の狭い本当に困った人になってしまっていたけれど、それは、自分の生まれ持った性質ではありませんでした。追い込まれてきたことが原因だったと、はっきりと思うことができます。
 そして、本質はなのはなのみんなと、同じでした。長い時間がかかったけれど、ようやく、お父さんお母さん、あゆちゃんから教えてもらう言葉を、自分の物として受け止められるようになりました。

 自分を捨てること。今まで、それだけはできないと感じていたけれど、それは必要不可欠なことだと分かりました。
 コンサートの舞台で、「自分がどう見られているか」ではなく「全体がどう見えるか」を考えて、全体の中の一部として、視野を広く持つ必要性。

 全員で動きを揃えていく先に行き着くものは、『理想』だけ。だから、自分を捨てるほどに、理想に近づいていけること。理想に向かって、それぞれの精一杯で演じ、動きを揃えることが、大人数で踊る凄みになること。

 演じ続けること。自分を捨てて、お休みを求めずに、舞台の上でなくとも、毎日外向きな人格であることを地にしていくこと。

 自分の命を惜しく思わなければ、強くなれること。今、この地球の上で、戦場にいる人たち、血まみれの3歳の子を守っている5歳の子供と、同じ真剣さで、生きなければいけない。

 教えてもらうことを受け入れられる心で、向かっていけるコンサートは、今までよりずっと意味のあるものになっていくと、思います。
 できていない部分も多いと思うけれど、今の自分なりに、精一杯、自分を捨ててコンサートに向かっていけることで、なのはなファミリーの一員――ひいては、まだ見ぬ人のために力を尽くして生きていくのだと覚悟を持つ一人だと、自信を持って思うことができます。みんなにとって当たり前のようなことだけれど、私にとっては本当に難しいことでした。ずっとできずに、苦しく思ってきたことでした。
 私も、なのはなのみんなと同じだと心から思えて、ここにいていいんだと、やっと思えました。

 昨夜からのダンス練習で、目の奥を開いて前を見ることを意識しました。今までのように、目を開ききって行き過ぎるのではなく、なるべく心を落ち着けて、静かな心で強く目線を見ました。みんなで揃えた、あるべき形になれるように。
 すると、ダンスで決めポーズをしっかり止められるように、なってきました。地に足をついて、踊ることができるようになったと、感じました。
 下手上手いは横に置いて、今の実力をしっかりと出して、1回1回積み重ねていけるように、なりました。
 視野を広げて、立ち位置もここだという場所を見つけられる、ということもありました。
 これなら、コンサート本番へつなげることができると感じます。私の場合は、今まで行き過ぎる心境だったので、心を静かに、落ち着かせて、その中で起伏をつけていくことを、これからも意識しようと思います。

 昨夜を境に、また一段と心が楽になりました。まとまりがなくて読みづらいものになってしまったけれど、読んでもらって、ありがとうございました。