11月25日のなのはな
ウィンターコンサートへ向けた、第1回目の通し練習をしました。
正直、どうなるんだろう、いろんなところへ不安が散って、とても緊張していました。
はじめての通し練習といっても、コンサートまで残り3週間しかないから、通し練習ができる週末は3回しかこないんだ……と思うと、一回一回が本当に本番だと思ってしなくちゃいけないな、と思いました。
でも、それはちょっと違っていたなと、朝の食事のコメントを聞いたときに思いました。あゆちゃんが、今日はあゆみちゃんの旦那さんのひでゆきさんが来てくださったり、卒業生の人が見に来てくれていたりして、だからその人たちにこの脚本の世界観や伝えたいことを伝えて、楽しんでもらえるようにしたい、という風に話してくれたとき、あと3回しか週末が来ないから本番だと思ってやる、ということではないんだ、と思いました。
数が少ないから本番だとか思うわけではなくて、いつも見てくれる人に向けて、そしていない人に向けても、いつも誰かに伝える側、楽しませる側のエンターテイナーとしてステージに立つんだ、と思いました。
みんなの食事のコメントを聞いたとき、自分の心持ちを正しい方向へ導いて気づかせてもらえたと感じました。
いままで、単体で練習していた楽器演奏、ダンス、コーラスなどがすべて一つの物語を構成するパーツになって、流れるようにつながって、約3時間のステージが作られます。
今の時点で、練習が足りていないところもあるけれど、いまできる精一杯でやろうと思いました。
通しをやってみて一番感じたことは、もっと脚本を読み込みたいということ、主人公の女の子はこのときはどういう気持ちなのだろうか、というのを考えたい、と思いました。
なんとなく、ここまで来週の通しに向けて気ぜわしく、お父さんに教えてもらったことをただその通りにやらなくちゃ、という気持ちで来てしまって、こうやって一通り通していくと、(このとき、わたしはどう思っているの?)と分からなくなってしまうところが多々あって、気持ちがない演技になってしまっていると思いました。
しかし、そんなまだまだ解釈が行き届いてない段階でも、前後のダンス・演奏とバトンをうけついでいき、物語をおっていくなかで、バンド演奏やダンスの音を感じ、台詞を言っていると、(ああ、わたしはこう思っていたんだな)と自分が忘れていた感情をじわじわと思い出す場面がありました。なぜ、自分は逃げなくてはいけなかったのか、一度逃げてしまったとき、わたしはどう感じていたのか、どうして逃げ続けてしまったのか、ああ、そうだったなあと思い出しました。
それは過去のことだけれど、脚本には現在、未来につながる、これからはどう生きていけばいいのか、どうすればもう逃げないのでいいのか、という答えが本当に脚本にはあるんだと思いました。
通し練習が終わった後に、お父さんやあゆちゃんにラストシーンを見てもらったときに、考えなく流してしまった台詞の一つひとつにもの凄く深い気持ちが込められていて、それは役がただ言っていることではなく、すべての人とつながることができる普遍的なことでもあるんだ、と思いました。
台詞の一つひとつを絶対に流してはいけない、と思いました。
浅いなりにも未熟なりにも、こうやって通し練習やコンサート練習をしながら、お父さん、お母さん、あゆちゃんに教えてもらいながら、みんなのなかで練習をしながら、少しでもこの答えを自分のなかで深めて、そして、それを劇として明確に綺麗に表情、身体で表現して、見ている人に伝えられるようになりたいと思いました。
劇にあるストーリーは非日常的だったり、飛んでいる設定もあるけれど、全部私たち自身のことで、私たちだからこそ表現できることだと思いました。
分からないこともあるし、考えられていないこともあるけれど、毎日毎日、気づいたことから、伝えられる形を作っていきたいし、ちゃんと考えていきたいと思いました。
残りの限りある時間で、みんなとより深く自分たちの気持ちを表現して、お客さんと深くつながることのできる、ステージにしていきたいと思いました。
(やよい)