「利他心と利己心」 ななほ

9月24日

 試験前だから日記はしばらくお休みと思いながら、今日も10分限定で書きます。10分で切り上げるので、中途半端でしたらすみません(最初に宣言しておきます)

 新しく発足した同盟のミーティング(開会式)があり、お父さんから利他心と利己心について改めて教えていただけたことが嬉しかったです。

 私がどうして、この同盟に入ろうと思ったのか、その理由や自分が何に困っていたにか、どう勘違いしていたのかが、お父さんのお話を聞かせていただく中でハッキリしていきました。

 ここ最近、私はあまりイライラしたりだとか、他人を気にしたりだとか、自己否定や反省しすぎるということがない状態がしばらく続いています。

 でも、どこかで未消化な部分、もう少し深いところで理解しなければならない部分があるような気がしていました。

 例えば、私が気持ちが落ちてしまう時は、「自分が利己的なんじゃないか」と感じたときです。でも、今日の話を聞かせていただいて、利己的という定義自体、私は間違っていたなと思ったし、(利己的なんじゃないか)と思って自分で自分の首を絞めてしまうのは優しくないことなのだということも分かりました。

 何をもって、利他心というのか、利己心というのか。
 利他心は辞書で引けば、「自分の利益はさておいて、相手の利益を優先して考えること」というように出るかもしれないけれど、相手の利益を優先して考えるという時、1つの間違いが生まれてしまうということをお父さんが話してくださりました。

 例えば、目の前にプーチン大統領がいてプーチン大統領に、「お願いです、私の利益のために戦力になってください」と言われたとしたら、どうするのかということ。
 相手の利益を優先して考えるという利他心の考え方では、ユアペースになってしまうと話してくださりました。

 またもう1つ、仮に2人の人が違う意見を持っていて、自分の意見を問われたとき、どちらを優先したらいいのか。これも、こっちの人の利益を優先したら、もう1人の人の利益は優先されないというようになってしまうということ。

 このように利他心というのは、相手の利益を優先して考えるというのでは間違ってしまうということを教えてもらい、自分は勘違いしていたところがあるなと思いました。

 私が(自分が利己的なんじゃないか)と思う時、結構な頻度で、目の前の相手に対して優しくない行動をしてしまったんじゃないかとか、目の前の人に対して自分の利益を考えて行動してしまったんじゃないかとか、スケールの小さい範囲で、利他心か利他心じゃないか、優しいか優しくないかを判断してしまっていたと思いました。

 でも、本当の利他心というのはそんな小さなものではなく、神様と約束した行為のようなものであり、理想社会を作るために、今自分は何をすべきかを考えて行動することだと教えていただいて、とても分かりやすかったし、視界がクリアになっていくのを感じました。

 そして、利己心というのは理想社会を見ていないこと。
 そのため、一見、自分が得したとしてもその行動は利他心であることもある――今の現実や目の前だけを見たら自分が得したように感じても、遠い未来で利他心で繋がっているというように、本当に利他心という心持ちが大切なのだと思いました。

 話を聞かせていただく中で、どんなことでも、自分が求め続ける限り、諦めない限り、回復する道があるのだと思い嬉しく思いました。

 そして、今回集まったメンバーと協力して、利己心から利他心の価値観へと自分たちを作り替えていくことで、なのはな全体や、これから出会うまだ見ぬ誰かの為にもなり、その人たちが回復するための材料にもなるのだと思うと嬉しかったです。

 今の自分がどんな状態であっても、過去にどれだけ苦しんだり、逃げてきたり、諦めそうになっていたとしても、こうして諦めずに、逃げずに私たちが利他心の人へとなることで、たくさんの人の希望になれるし、私たち1人ひとりの悩みや課題、これからも出てくるであろう質問や疑問も全て、誰かの回復の材料、1つのピースになれると思うと希望を感じます。

 まだ、分からないことや中途半端なところ、浅いところでしか理解できていないこともあるのですが、これから同盟のみんなと一緒に、自分自身の未熟さや課題に向き合い、それを謙虚に、誠実に変わっていき、ぶれることのない利他心の人へとなっていきます。

 急いで書いたので、つじつまの合わないような日記でしたが、日記を書けて嬉しかったです。もうすぐ試験なので、日記はこの辺にしますが、ここ最近はダンスをしたり、音楽合宿やお楽しみ会の準備、畑の集まりにバナナのこと、編集のこと、昨日のはくせんでの演奏など、書きたいことが山ほど、山ほどあるけれど、またあとで書きます。