「誕生日の日に」 りんね

9月22日 

 

 

 

 今日は誕生日でした。22歳になりました。
 朝から夜まで、みんなから「お誕生日おめでとう」とたくさん声をかけてもらいました。
 私はなのはなに来るまで、誕生日は、どうしようもなく悲しくて虚しくて、最低な日になることも多かったです。
 けれど今は、こんなに多くの家族がいて、毎年、温かいお祝いをしてもらっています。本当に幸せなことだと思いました。
 印象的だったのが、ジャム用のイチジクを家庭科室へ届けに行ったとき、ほしちゃんが「ついに今日から、イチジクジャム炊き始めます。りんねちゃん、お誕生日おめでとう」と言ってくれたこと。ただの偶然だけれど、ほしちゃんからの贈り物のようで、ぐっときました。

 食堂の黒板には、まよちゃんたちが描いてくれたであろう、とてもかわいらしい絵がいっぱいでした。中に、大好き、という言葉がいくつか書いてくれてあって、ありがたいな、嬉しいな、と思いました。
 食事のコメントでも、みんなが私の良いところをいい風に救い上げてくれて、お祝いしてくれたことがありがたかったです。
 けれど、みんなのコメントを聞いていて素直に受け取れない思いもありました。私はそれ以上に、子供っぽくてみんなに迷惑をかけてしまっていることの割合とか、まだまだ、なのはなの利他心の土俵に乗れていない面が多いように感じました。

 

 私は、なのはなに来るまでずっと自分を守り続けてきました。外向きな人との関りはほとんどできていませんでした。生身の人間とではなく、偏った小説、漫画、アニメなどから得たもので、自分の世界100パーセント。社会性は0。人間として成り立っていませんでした。
 だから、なのはなに来たとき、なのはなの中でも人として体裁さえ保てないほど、大きすぎる欠落を持っていました。
 それで、失敗また失敗、大勘違いまた大勘違いを繰り返しました。そのたびにどうあるべきか、時には厳しくお父さんお母さん、スタッフさんたちから教えてもらって、人として育てなおしてもらいました。

 今でも間違うことは多いけれど、だんだん人間に近づいているのではないか、と思います。それでもまだまだ、自分にこもり続けてきたつけは大きい。視野が狭く、みんなの中でも特に未熟だと思います。
 そんな自分が、大きく受け入れてもらって生きていくことができるのは、みんながいるからです。いつも大目に見てもらい、許してもらい、気づかないうちにたくさん助けてもらっているのだろうと思います。みんなに助けてもらった分、還元していけるように、成長していきたいと思いました。
 お父さんが、己を知っていることは強みであると教えてもらいました。自分が未熟であることを知っていると、それを治そうとし続けることができるから、未熟さは問題ではないと教えてもらいました。
 また、お母さんが、教えてくれたのは、私を取り巻く環境が、過酷だったということ。それがある意味良くて、泥臭い一生懸命さに繋がっているのではないか、と話してくれました。

 そして、泥臭く一生懸命であり続けたら、「未来は明るいです!」ときっぱりと言ってくれました。

 

 今日は誕生日という機会に、いい意味で見てもらった日だと思いました。
 前よりも、いい意味で成長していると言ってもらったことも、ありがたかったです。
 そして同時に、夜の集合で忘れてはいけないというように、大切なお話もありました。
 努力家であること以上に大切なことは、利他心を持つこと。

 

 質問の中で出た「足の速いアスペルガー」。何人かの人と一緒に、私も当てはまっていました。私は小学生のときから、球技はてんでできないけれど、一直線に走ることだけは得意でした。
 足の速いアスペルガーは、時として、利他心を置いてけぼりで突っ走ってしまうということ。それは大きな穴ぼこだと思いました。
 自分にはそういう穴ぼこがある。命取りにもなるほどの、穴ぼこが。それを改めて理解していきたいと思いました。

 今日はみんなから、たくさんお祝いしてもらって、ありがたい一日でした。お祝いしてもらうこと、暖かな気持ちを向けてもらうことが、こんなに嬉しいことなんだな、と思って、次は自分がお祝いする立場になりたいと思いました。

 明日からも、みんなに感謝の気持ちを持って、できることを頑張っていきたいです。