「楽しさに注釈がついていくこと」 ちさ

1月25日

 雪かき大会の午後でした。
 詳しくは山小屋便りに書きました。少し個人的なことを書きます。
 雪かきをしているとき久しぶりに気持ちが全開になって、前も後ろも右も左のことも心配せずに夢中になっていた楽しさでいっぱいでした。これが楽しい、などと注釈がなく、何が楽しいと考えている間もなく、ただひたすらに楽しくて、ずっとやり続けられる楽しさで身体が満ちていました。心の底から楽しかったです。

 本当に心の殻が破れたら、いつも目の前のことにこんな風にフラットに、全細胞で楽しめるものと思っていました。そんなことを思い浮かべていて、一方で、少し傍観者の気持ちが混じっているような楽しみ方しかできないこと、全開になりたいのになることが怖いのはどうしてだろう、とハウスミーティングでお父さんに質問しました。
 そして、全開に楽しむというのは、子供の、シンプルな感情であると教えてもらいました。子供の時は、単純に花がかわいい、とそれだけを真っ直ぐに思うけれど、大人になっていくにつれて、こんなところがかわいい、美しいのはこうだからだ、と注釈がついていく。複雑になっていくから、手放しに楽しもうとしなくていいのだと教えてもらいました。

 必要ない怖さであったとわかったことは収穫だったけれど、少し寂しいなと思いました。
 今はぽっかりとしたものがあるけれど、それが充実して、温かな色と温もりで満たされるとき、どんな感じなのか早く知りたいなと思いました。
 だけれど昨日の雪かきに出会えてとても嬉しかったなと思います。

 自分にも心の底から夢中になれて、楽しくて、汗だくになりながらも、もっとやりたいと思えることが嬉しかったです。
 寒いのも、雪がいっぱいで道が危険なのも困るけれど、雪かきは好きだからまたやりたいなとも思ってしまいます。
 しかしすでに背筋を中心に全身がバキバキです。
 今日は布団に入ったらコテッと眠ってしまいそうです。
 消灯になるのでここで提出します。
 読んでくださりありがとうございました。