「仲間」 さやね

◆一人ひとりの物語

 最終曲『リカバリー』。
 宇宙と人体、舞台と客席、あなたと私はひとつになって、ダークマターの愛に包まれている。私たちは守られて、愛されている。暖かくて、優しい息遣いがわかるほどすぐそばに、宇宙、そして人類をつくった存在がいる――。
 愛の世界を作るために、依存症のない、苦しむ人の出ない世界を作るために、お父さんお母さんみんなと、支えてくださるたくさんの方々、そして会場に足を運んでくださった皆さんとコンサートを作りました。

 これは私の回復の物語です。私たち1人ひとりの回復の物語です。 
 答えがここにあります。4歳から6歳の思い出ファイル、親離れの失敗、依存症。私の使命、利他心、いつも幸せであること。
 お父さんお母さんみんなと旅をして、みんなで作る渦の一部となってコンサートができたこと、コンサートが大成功したことが嬉しかったです。

◆『ムーンライト・ソナタ」

 『ムーンライト・ソナタ』という曲を見つけて、はじめて聞いたとき、それは息をするのも忘れるほど、格好良くて、目が離せなくて、ギター1本でこんなにも劇的な表現ができるのかと脱帽して、胸が熱くなりました。
 ただ直感的に好きでした。まさか自分が弾こうとは思っていませんでした。

 聴くばかりだったのが、いつの日か、この曲をなのはなのコンサートでできたら、すごくいいんじゃないか。月は、なのはなと深い縁がある。なのはなにはこんなにギターに飛び抜けた人がいるのかとびっくりして、内に対しても外に対しても、なのはな全体が上がるんじゃないか。

 限界を破りたい。見たことのない境地に行きたい。これまでの自分を、過去を、周りの人を、評価を、期待を破りたい。この曲ならできるんじゃないか。この曲が弾けたら、変われるんじゃないか。
 お父さんお母さんに相談して、楽譜を買い、新たにギターを買い、練習を始めました。

 曲は想像を絶するほど難しかったです。楽譜は全19ページあり、メロディ、ベース、ドラムスと、テンポ、強弱、テクニック、抑揚のつけ方が細かに記されています。そして透けて見える演奏者の逸脱した才能、情熱がありました。
 1か月かけて1ページ弾けるようになるかどうか。途方もない作業でした。

 果たしてコンサートまでに弾けるようになるか、自分の心がそこまで辿り着けるかどうか。どうしてこの曲をやろうとしてしまったのか、わからなくて、恐くて、練習が進みませんでした。
 お父さんは言いました。

「お父さんは今でも、願う、ということと、生きるということが、切り離せません。どうかちゃんと生きさせて下さい、という願いです。一生懸命にやるので、どうか届きますようにと願って、大きな危機も乗り越えられました。
 弾かせてください、と願い続けるだけでいいと思います。そこで奇跡が起きると信じることです。もしも、弾けなかったら、それはそれで自分の運命で、それはそれで、いくらでも打つ手はあるのです」

 お父さんが全く実績がないなかでジャーナリストの仕事を始め、その世界で生き残り、アンカーをしていたこと。お母さんと、どこにも例のない摂食障害の回復施設なのはなファミリーを立ち上げたこと。なのはなのコンサートで毎回、何もないところから脚本を書き上げてきたこと。
 お父さんの生き様を、尊敬して、同じ土俵で語るには失礼だけれど、私もお父さんのように生きたいと思いました。

 誰から言われたわけではなく、私はこの曲を弾きたくて、弾かずにはいられませんでした。この曲に挑戦することは、私の心に巣くう依存を断ち切ることでした。

 一人で弾くことはできず、まえちゃんと2人でも難しく、ソプラノサックスのさとみちゃん、ドラムのかにちゃんに一緒に演奏してくれないかとお願いしました。

◆可能性は低いけれど

 コンサート1か月前に、はじめて4人で合わせました。私は何も弾けませんでした。ギターが弾けませんでした。
 そのとき、もう辞めます。無理でした。という気持ちになりました。
 はじめからできる保障なんてないし、できる可能性は限りなく低くて、まえちゃん、かにちゃん、さとみちゃんまで巻き込んで、それだけの時間、気持ちを費やして果たして完成するのか、それだけの価値があるのか。
 利己的な欲なんじゃないかと思って苦しくて、もう他の練習に時間を割いたほうがいいと思いました。

 まえちゃんは言いました。
「脚本にもぴったりなところにこの曲が入っているし、さとみちゃんもやる気でいてくれてるよ。本番前日までにできたらいいのだし、最後まで諦めないで仲間と一緒に練習することに本当の成長があって、コンサートの意味があるんだってお父さんもいつも教えてくれる。できない今が多分一番大事で、できない今も本番で、もっといい日なんてない。一緒に頑張ろう」

 そうして気持ちをつないで、11月下旬、体育館での通し稽古。はじめてみんなの前で演奏をしました。
 頭が止まって、指が動かなくて、何も弾けませんでした。
 悲惨な姿を晒してしまって、情けなくて、申し訳なくてたまりませんでした。
 練習をしているときに安心していないか、とお父さんは言いました。確かに私は、一人音楽室で練習をしていて、守られて安心していました。それに気付いて、ショックで、悔しくて、でもその通りでした。常に満員の観客を思い描いて練習に臨むこと、狂気の世界に入ること。お父さんがいつも教えてくれることでした。今からやります、と気持ちを改めました。

 ある日の夜、つきちゃんが声をかけてくれて、ムーンライト・ソナタの衣装合わせがありました。体育館に行くと、そこには黒とピンクの豪華なドレスがある。目を疑いました。着てみてください、そうつきちゃんが言い、着させてくれました。
 お母さんが来て、いいね、と嬉しそうな笑顔で言って、首飾りをやめて、別のティアラにしてくれました。(お母さん、正気ですか)心の中で叫びました。するとお父さんとまえちゃんが来て、すごくいいね、とお父さんが嬉しそうな笑顔で言いました。まえちゃんもうなずきました。
(お父さん正気ですか、みんな正気ですか)
 心のなかで叫んで、でも、お母さん、お父さんがいいと言うなら、ムーンライト・ソナタを演奏していいなら、私は何だってやります、と決めました。

 12月に入ってもなお、コンサートの舞台で自分たちが演奏をしている姿を想像することができず、かなりリスクがあることはわかっていました。
 身の程知らずな大きなことを言って、指一本で崖にぶら下がって博打をしている。
 クライマックス近くの場面で演奏をして、みんなの前でさんざんな姿を晒してしまって、情けなくて、でもできないところも全部晒して、やるしかありませんでした。
 本番までに間に合うかどうか保証はなく、恐さとの戦いで、どうか弾かせてくださいと祈り続けることしかできませんでした。

◆この曲にかけて

 お父さんは教えてくれました。
「焦ることはないです。きっと神様が弾かせてくれる、そう信じたらいいと思います。そこに音楽があって、すでに出来上がっていて、それを指がなぞっていくだけ、というふうになったら、難曲もきれいに音が出ると思います。コンサートのゲネプロ、そして当日にできている、それでいいと思います。それまではどんなに未熟でも失敗しても、恐れることはありません」

 どうしてここまでムーンライト・ソナタにこだわるのか。私心と言ったらそうなのかもしれません。もう利己心とか利他心を越えていて、何者かに突き動かされていました。依存という悪魔に勝つためにはこの曲が必要で、人生をかけている、まえちゃんとさとみちゃん、かにちゃんと一緒にやり遂げる、それは私の使命だと思いました。

 速弾きはテンポを落としました。112から92になったとき、編集した音源を聞かせてもらって、遅すぎると思いました。もう何が良くて何が悪いのかわからず、人の気持ちも周りも見えなくなっていました。

 92に落とさなかったら、まえちゃんは抜けると言いました。まえちゃんは、バンドの第1ギター、舞台美術、音響など、誰よりも多くの役を持ち、責任を負って、身を削って動いていました。練習時間を作ることは難しく、本番までに完成させることはできない。
 まえちゃんの思いを聞いてはじめて、私は間違っていたと気づきました。
 ソロギターではなく、アンサンブルだから、4人で気持ちをそろえること。まえちゃんがいなければ、この曲は完成しない。やる意味がない。まえちゃんがいてくれたから、今がある。私は欲を出して、果てしない理想を追って、仲間をないがしろにしていました。

 どんなに技術が長けていても、仲間がいることには敵わない。
 そうして私たちは、原曲を越えてきました。

 92。テンポを落として、確実に音を出す。メロディラインを聞かせる。
 速弾きは、まえちゃんが頭拍の音を弾いて助けてくれました。
 それぞれに役割を分けて、特化する。みんなでひとつになる。
 ホール入りする2日前、ムーンライト・ソナタの完成形が決まりました。

◆ベーシストとして

 この夏から、ベースをさせてもらうことになりました。
 超基本のきから始め、ベースは弦が4本であることを知り、右手の爪が割れてしまって、右手の爪は伸ばしてはいけないことを知りました。弦は太くて硬く、指先の水膨れができては潰れて、力の入れ方や手首の角度、指のかけ具合など、みかちゃんの姿をイメージして、一番いい形を探しました。

 真夏の音楽室で汗を流しながら、キーボードのせいこちゃんやさくらちゃん、エレキギターのりなちゃんと練習を重ねました。

 なかでも苦戦したのは『ブラック・クイーン』でした。これまで何度も聴いて、踊ってきたのに、原曲に合わせて楽譜を追うことができない。楽譜が読めない。楽譜を追うことを諦めて、原曲を何度も何度も聴きました。とても恥ずかしいことですが、ベースを意識して曲を聞いたことがありませんでした。

 特にクイーンの楽曲は、ドラマチックなメロディが各パートで繰り広げられ、それが奇跡的に重なり、一つの音楽となって世界を創り上げている。音楽の成り立ち、奥深さを知るほどに面白く、そしてこれまで演奏をしてきたなのはなバンドのみんなに尊敬の念しかありません。

 古吉野の体育館で、バンドで演奏する曲目の音調整をするために、よしえちゃんと日にちを合わせて仕事を休まさせていただきました。そのことをあゆちゃんもまえちゃんも、とても喜んでくれてとても嬉しかったです。
 お父さんが演奏を聞き、1曲ずつ、音を作りました。
「まずはベース、どんな音を出している?」
 サビのフレーズを弾くと、お父さんは、
「高音は中から4分の1上げる、低音は中」
 そうすべての曲で、ベースの音を指示してくれました。お父さんの手元には紙があり、お父さんは事前に原曲を聞き込み、音を決めてくれていました。
 私たちは懸命に、お父さんの意を汲み、演奏をしました。

 お父さん、お母さん、みんなと理想を追い求める旅でした。もうそこに音楽があって、それをなぞるだけ。音楽も、ダンスも、脚本もすべてそうでした。
 ベースは、バンド全体の音の隙間を埋めて、バンドを一つにまとめる役割がある。みんなと一体化する。メロディラインを歌う。ここはせいこちゃんのキーボードにしっかりと添う、ここはまえちゃんのギターソロを立て、まえちゃんが気持ちよく演奏できるようにする。
 お父さんお母さん、みんなと、たった一つの理想形を見て、気持ちをひとつにして向かっていく今が、何にも代え難い幸せでした。

 ゲネプロの前日、トラブルを起こしました。ベースの音が出ませんでした。
 原因は、朝、電池を交換したときに、線を切ってしまいました。無意識でしてしまって、とんでもないことをやってしまったと思いました。すぐにあゆちゃん、まえちゃんが見てくれて、須原さんが見てくれて、ハンダでつけました。しかし音が出ません。お父さんが見てくれて、それでも音が出ませんでした。

 たった今、ゲネプロ前最後の通し稽古が行われていて、ベース、リードギターのない演奏が聞こえていて、ベースに穴をあけてしまって、まえちゃんもギターに穴をあけさせてしまっている。ムーンライトソナタには出て、まえちゃんが連絡を取ってくれて、須原さんが運転をしてくださって、森の工房に走りました。
 いま私にとって、なのはなのベースは命よりも大事でした。

 森の工房で、影山さんが直してくださいました。先輩から受け継いだフェンダーのジャズベース「ベティちゃん」は、だいぶ疲れていました。電池を入れる部品を新しくしてくださり、ネックの反りやつまみを直してくださいました。

 アンプに繋いで音が出たとき、本当によかった、と涙が出ました。もしも明日だったら、影山さんはいらっしゃらなくて、今日でよかった、応援しています、お父さんにもよろしくお伝えください、と優しく言ってくださいました。

 お父さん、あゆちゃん、まえちゃんに連絡をして、良かった! と返事をくれました。みんなが、良かった、と喜んでくれました。本当に大変なことをしてしまったけれど、ベティちゃんは絶好調です。
 本番までの不運は私がすべて出し切りました。もう失うものはない、全力を尽すだけです。

◆大きな大きな拍手

 ゲネプロと本番。
 特別なことはなく、いつも通りにこの日はやってきました。
 私たちはダークマターの力に守られていました。
 みんなと練習してきた一瞬一瞬がかけがえのない時間でした。演技、ダンス、演奏、舞台背景、照明、すべてがひとつになって、お客さんから跳ね返って、肯定されて、満たされていくのを感じました。
 休憩時間にあゆちゃんが声をかけてくれて、バンドは気持ちが高ぶってテンポが速くなりやすいから、落ち着いて後半に臨みました。

 ゆりかちゃんが美しく舞う『レヴァ』、せいこちゃんのキーボードに心を添わせて、世界を作ります。演奏を終えて、手を洗う。爪をつける。ゆずちゃんがドレスを着つけてくれて、ふみちゃんがティアラをつけてくれる。どうか弾かせてください、そう祈りギターを持つ。

 舞台からこぼれる光を浴びて、まえちゃんの背中が、大きく、暖かくありました。みんなが舞台を見守り、舞台へ気持ちを送っていました。まえちゃん、さとみちゃん、かにちゃんと舞台に出ました。

 ムーンライトソナタは、神様が弾かせてくれました。まえちゃんと目を合わせて曲が始まったときから、やはり意識はなくなり、指が独りでに動いていました。どうかこの曲を最後まで演奏させてください、と祈ることしかできませんでした。
 ミスはあったけれど、私のミスはまえちゃんが埋めてくれて、さとみちゃん、かにちゃんがかき消してくれて、誰がどの音を弾いているのかわからないくらい、4人で一つの音楽を作り、曲は進みました。

 コンサートのクライマックス近くで演奏できたら、ストーリーをさらに深めて、彩りを添え、感動を呼ぶだろう。
 もうそこに音楽はあって、すでに出来上がっていて、それを指がなぞっていくだけ。きっとできる日がくる。

 お父さんお母さんが言ってくれ、信じてくれて、挑戦する場をくださって、あのときまえちゃんが諦めないで一緒に頑張ろうと言ってくれて、まえちゃん、さとみちゃん、かにちゃんがいてくれたから。みんなが応援してくれて、信じて待っていくれたから。
 顔を上げたとき、それは大きな大きな拍手が響き渡りました。
 ありがとうございます。ギターを下しました。

◆自分の人生を材料にして

 最終曲『リカバリー』。宇宙と人体、舞台と客席、あなたと私、ダークマターと私。すべてが一つになって、もう指が取れてもいいから、すべてをかけてベースを弾いて、みんなと一つになりました。
 すぐそばに神様がいること、私たちは愛されて、守られているということ。
 暖かくて、優しい愛の世界でした。

 幸せを先送りせず、いつも幸せであること。小腸の感じる愛しい人と、美味しいものを美味しいねと言い合いながら食べること。よく眠ること。その幸福の信号は、やがて扁桃体へと伝えられ、利他心の心持はぶれることがなくなり、依存症になることはない。
 愛の世界を、依存症のない、苦しむ人の出ない世界を作るために、仲間と一緒に生きていく。自分の人生を材料にして、使命を全うします。ありがとうございました。