
12月18日のなのはな【後半 その1】
(ここからは、とうこ役 やよい が記事を担当します)
後半の幕が開きます。
ビッグバンド演奏の『ドラムライン』では、はじめての試みで全員でのマーチング演奏を行いました。
劇は、反愛情大王ギブソンの邸宅から始まります。
大王の子分が、とうこに問いかけます。
「いきなり、ギブソンの仲間に入ってきたのには驚いたよ。とうこちゃん、きみはなんで、ギブソンの仲間になろうと思ったんだい」
脚本で、初めてこのシーンを読んだときから、子分の問いに対するとうこの答えは、まさに私そのもの気持ちだ、と感じたのを覚えています。
利他心がなけれなばならない、とずっと自分に言い聞かせてきた。
そうでなければ、本当の幸せは得られないし、世の中をみんなが楽しく暮らせるようにはできない、と。
でも、自分の心をまっさらな純真な気持ちですべてにすることはできなくて、白に黒が少しでも混ざると色が濁っていくように、自分の内側に対して神経質に思うと、どれだけ努力しても、利他的に生きていけないのではないか、という強い自己嫌悪感。
いい子であろうとすることも、いい人になろうとすることも、綺麗ごとを言うのも、もう嫌になってしまう気持ち。
自分には濁りがある。
濁りがあるならば、どこまでも濁りきって、自分の思うままに生きていけば、いっそのこと楽なのではないか。
だから、とうこはギブソンの仲間に入りました。
私は損得感情に染まり切ったら本当に楽になりきれるのだろうか。
これから、私はどうなってしまうのか。でも、私はもう、自分も、自分の人生もどうでもいいのかもしれない。
そう思っていた時、視界の左端に白い綺麗な首飾りが見えました。
原始的なデザインながらも、一目見ただけで強く印象に残る形と模様。
そこに書かれある言葉は……
「あなたの使命」
これを渡してくれた人は誰? 急いで振り返ると、ときたま、体内で現れるLUCAという謎の生物の後ろ姿がかすかに見えた。
「あなたの使命」
この言葉をはじめは記号として頭の中でとらえ、しかし、じっくりと反芻するうちに、その言葉が本当に意図するところに気づきます。
とうこの中に一筋の細い微かな光、微かで細くも希望へと確かに繋がっている、途切れることのない一直線の光が心にさします。
そうか、私には私の使命があったんだ。
私がどんな人間であろうと、苦しくても、関係ないじゃないか。
損得感情のギブソンの仲間としては、私は生きることは絶対にできないのだ。
ギブソンの仲間になってしまった今、私は何ができるだろうか、どうすればギブソンをやっつけられるのだろうか。
とうこは、とある企みを考え始めるのでした。
私は、本番直前に、あることを思いました。
よく生きることを諦めていたとうこの傍にLUCAがそっと現れて、「あなたの使命」を渡してくれたように、私にとっての「あなたの使命」は、お父さん、お母さんが、まだ見ぬ誰かのため、そして私たちのために書いてくださった脚本――44ページに思いが込められたこの脚本だったのだ、と気づきました。
とうこがLUCAからもらった「あなたの使命」で、忘れていた生きる道筋を気づいたように、私もお父さん、お母さんの脚本に、自分の使命を気づかせてもらいました。
だから、とうこと私は言います。
「もう、迷わない」
損得勘定のギブソンを振り切ってやる。依存は断ち切ってやるんだ。
私はよく生きることを絶対にあきらめない。周りがどうであろうと利他的に生きていくことをあきらめない。
私の利他的によく生きようとするこの心は、まだ生きているんだ。
私はまだ息をしている。
とうこ、みんなの決心を込めて、『アライブ』を演奏します。
強く潔く、勇ましい演武で気持ちを表現します。
人間は、いつになったら人間として完成するんですか。
生命の誕生、胎児が生まれてくるまでのおなかの中の成長を見た、てつおの素朴な疑問に、博士は答えます。
6歳だ。人間は6歳になるまで、脳は特に未完成なんだ。
ということは、6歳になるまでに、ギブソン大王が何かを仕込める時間がたっぷりあるということ。
6年間という長い期間、人の脳は未完成、すなわちそれだけ敏感で柔らかく繊細で大切な時期であるということ。そして、この大切な期間にギブソンは何を仕込むのか。
脳に行けば、心の本体がどこなのか、ギブソンが何を仕組んだのか、分かるかもしれない。
そして、とうこを取り戻すヒントがあるかもしれない。
永遠は一瞬、一瞬は永遠、脳に入る!
答えを探るため、博士、たかお、てつお、ナナポンは脳に向かいます。

脳の大脳新皮質へ到着します。
心はきっと脳にあるはずだと思う、たかお。
期待を胸に脳に着いた博士ら4人は、まず最も人間の脳の中で発達している前頭葉に出会います。
まなかちゃん演じる前頭葉、あんなちゃん演じる頭頂葉、みつきちゃん演じる側頭葉。
それぞれが自信満々に自分の仕事を語ります。
実はこのシーンは、本番3日前のホールでの通し練習の際にキャラクターを見直すことになり、お父さんが見てくださってセリフの言い方を要所要所かえて、面白くて濃いキャラクターになるように変更していました。変えてすぐに行った通しのあとに、お父さんから、習熟度がかなり足りないとの指摘をうけ、前頭葉のまなかちゃんとはゲネプロの前日の夜、そして本番の朝もギリギリまで一緒に練習しました。
小さなことだけど、どのセリフをどういうニュアンスでオーバーに言うか、それを見直して、何度も練習すると、面白さがまったく違ってきます。
前頭葉、頭頂葉、側頭葉は本番をふくめたラストスパート3日間で、加速するようにパワーアップしたように感じます。
本番が一番面白くて、3人が生き生きと楽しく演じている姿が素敵で、うれしいなと思いました。
大脳新皮質界のエリートと自負し、高度な精神機能を持つと語る前頭葉。
きれいな字を書くことができ、計算もできれば、空間認識をできる、芸術家でもあり、作家でもある、才能ある存在だと語る頭頂葉。
自分は脳の中の図書館と語る側頭葉。
前頭葉、頭頂葉、側頭葉の3人はそれぞれ、はじめは立派なことを言っているように見えるけれど、どれも手段でしかないということに、てつお達は気が付いていきます。
ナナポンに、こころとか愛情があるという感じではないわよね? と聞かれると、前頭葉はこう答えます。
生産的じゃないあれだよね。うーん、生産的じゃない。
脳の中でも発達していると思われた大脳新皮質はあくまで手段でしかなく、私たちが探している人間の本能的な心や愛情はないということがわかりました。
期待とは異なる事実に残念感を覚える4人。
最も人間らしい脳と言われていながら、人間らしさを感じない。
それはどうしてなのか。
博士は教えてくれます。
「人間の祖先が、まだミミズのような1本の筒だったころに理由がある」と。
ミミズのような生き物が舞台に実際に登場し、博士が実物を見せながら説明をしてくれます。
実は、この小道具は、照明を担当してくださった大竹さんが作ってくださったものでした。
ミミズのような生き物という名前から想像できないくらい、紫色とオレンジ色を主に色塗りされた、とてもポップで可愛いくも存在感のある生き物になっています。
人間の祖先がまだミミズのような1本の筒だったころ、食べるのも、出すのも、考えるのも、全部、筒の内側でやっていた。
鼻も無ければ、目もない、耳もない、顔もなく、不便だから筒の外側の皮を進化させて鼻、目、耳、顔を作った、それと同時に、鼻や目で得た外の世界の情報を処理する脳も、ついでに同じ外側の皮で作った。
それが大脳新皮質。
人間のありとあらゆる機能、箇所は、もとをたどれば筒の内側の内蔵か、外側の皮だった、という新事実を知ります。
そして、外側の皮を発達させてできたのが大脳新皮質、大脳辺縁系は内側の内蔵から作られている。
同じ大脳でも、元をたどれば違う場所から発達してきたということ。
考えるのは筒の内側でやっていたように、元々の脳は内臓からできている大脳辺縁系だということを知り、そこに愛情や、こころを感じる部分があるのではないか!
そう思った一行は、大脳辺縁系の方へと向かいます。
厳かな雰囲気を漂わせる大脳辺縁系は、博士ら4人に、大脳辺縁系の役目は一言で言えば、命を守り、情を出す、というのが一番大きな仕事だと教えてくれます。
「情」と大脳辺縁系が言ったとき、ここに愛情があるのではと喜ぶ4人。
情を出す、と語るその情には愛情もふくまれると教えてくれますが、私たちが想像したよりも「愛情」の仕組みは複雑でした。
そう、大脳辺縁系に愛情がある、と一言で簡単に言うのは、あまりにも早まったことでした。
ひとつの感情を決めるにしても、我々はチームワークで仕事をしているのだ、と大脳辺縁系は教えてくれます。
海馬→脳弓→乳頭体→視床前核→帯状回→海馬というサーキットに、大脳から来た刺激を回して判断し、それを偏桃体に送って、最終決定をしてもらっている。
偏桃体は、味覚、臭覚、視覚、体性感覚、内臓感覚も合わせて判断する。
たった一つの感情でも、いくつもの部署の合議制によって感情が決められていく。
私たちの感情は、ただ誰かが一方的に決めるのではなく、いくつもの部署がそれぞれ役割を忠実に果たしながら感情が決められていくのだとはじめて知りました。私が想像したよりも、感情というのはもっと複雑でした。
では、感情の核となる、本能を司っているのは一体誰なのか。
大脳辺系がその右手をぱっと開くと、マジックのように小さな逆三角形がぽんと現れます。
それは、視床下部。
直径1.5センチの小さな部署だが、そこが本能と自律神経のすべてをまとめている――と。
大脳辺縁系の中で繰り広げられる様々な部署との連絡、相談、感情を決めるまでのサーキットの流れ、賑やかに、でもシステマチックに意思を持って、生き生きと淡々と働く様を、タヒチアンダンスの『オテア・ルミア』で表現します。
いくつものパーカッションのリズムに乗り、ゆりかちゃんたちが踊るタヒチアンダンスからは、大脳辺縁系のように原始的な温かさを感じます。
神聖な存在感を放つ視床下部は、人間のいろいろな欲望をコントロールしているのではなく、生存する為に絶対に必要な調整をしているのだと語ります。
例えば食欲。人は食べなければ生きていけませんが、食べたいという報せを出す空腹中枢と、もうお腹がいっぱいだ、という報せを出す満腹中枢というのが視床下部にはあり、“ほとんどすべての”欲に、行け、止まれの2つの信号を用意している。
視床下部が自らの図を指しながら丁寧に説明をしてくれます。
「ほとんどすべての欲に」ということは、例外でブレーキが利かない本能というのはあるのか……。
一番大きな部分を占めていて、視床下部全体に強い影響を与えている本能とは。
視床下部が博士ら4人と目を合わせ、次の瞬間、視床下部の一番上にある、大きな範囲をしめる中枢を大胆に強く示します。
それは――。
「愛情」の中枢です。
愛情の中枢なるものがある、ということが驚きでした。
そして、その愛情の中枢がすべての本能を支配していると言ってもいいほど、人の本能と深く関わり、とても大切な中枢であることを予感させます。
愛情の中枢を見つけた喜び、そして、その柔らかく優しい愛情を表現するかのように『イン・マイ・ライフ』が演奏されます。
ピンクのムームーを着たゆりかちゃんと、その周りで踊る4人のフラダンサーの微笑みがとても綺麗で、舞台袖で見ながら心がじんわりと癒されていくことを感じました。
私たちが本当に求めていた、相手を無条件で受け入れて、思いやって、優しく思う気持ち、そんな気持ちを感じました。
愛情の中枢とは一体どのようなものなのか、そして視床下部が言った、「愛情の中枢がすべての本能を支配している」とはどういうことなのか。
大脳新皮質から大脳辺縁系へ、そして視床下部へとたどり着いた博士は、愛情の新事実に少しずつ近づいていきます。
視床下部は、ある本棚を見せてくれました。
その名も「思い出ファイル」の本棚。その本棚には4歳、5歳、6歳までの3年間だけの、“愛情にまつわる思い出”がしまわれています。
10月30日にはじめて第一稿の読み合わせをしたときから、このシーンはまったく変わっていません。
そして、私がそのとき一番、強く印象に残ったシーンでもありました。
ファイルを一つ抜き出して、この身体の持ち主の思い出ファイルが回想されます。
有名私立小学校の受験合格発表を見に来た母親とその子供。番号は587番。
しかし、掲示板には587番の数字がありません。
受験に落ちてしまったことに、ひどく腹を立て、足音を強く立てながら去っていく母親と、すがるように掲示板を見返しながら、母を走って追いかけていく、子供。
他にはどのようなファイルがあるのか。
視床下部はまた違うファイルを抜き出しました。
ちゃぶ台の横に座り、新聞紙で顔を完全に覆って、一言も話さず新聞を読んでいる父親と、食器を洗いながら、「今度の授業参観に大事な会議があって休めないから、代わりに行ってくれない?」と夫に話しかける母親。そして、その両親に挟まれ縮こまっている子供。
母親の相談をまったく聞かず、無視する父親。
恐る恐る母親は、「ね、あなた聞いてる?」と新聞を少しめくると、父親が睨みをきかせ、新聞を机に叩きつけます。
怒って、そのままその場を立ち去る父親と、「もうやだ」と吐息のような小さな声を漏らし、ちゃぶ台にうなだれる母親。そしてその一部始終をしっかりと目視したあと、母親から目をそらす子供。
愛情に関する思い出ファイルであるはずが、なぜ悲しい思い出ばかりなのか。
幼いながらも、受験に失敗し母親に怒られた経験は、強い挫折体験として、深い残念感とともに心に深く刻まれることになってしまう。
父親の配慮なく自分勝手な態度に、弱弱しい母親の悲しそうな態度は、子供を大人以上に心配させ、母親の悲しみは子供の悲しみとなって、ずっと心に残ってしまいます。
生まれてから脳を完成形へと成長させていくにあたって、とくに繊細な4歳、5歳、6歳という時期、悲しくつらく苦しい体験であったとしても、人はそれを愛情の形として記憶してしまうという重大な事実を、目の当たりにしてしまいます。
てつお、たかおは思います。自分の心を振り返ったとき、視床下部の愛情の中枢の思い出ファイルに、愛情あふれる思い出はあっただろうか。
そして、それを、今の時代を生きる人が、この事実から逃げずに、どれだけ知っているのだろうか、と。
私は、はじめて思い出ファイルのシーンを脚本で読ませてもらったとき、これは本当に私たちのことを書いているのだと思いました。
思い出ファイルに温かな愛情や優しい心配りがないことは、とうこもまた同じでした。
私は、なのはなに来て、はじめてお父さん、お母さんから「愛情」という言葉の正しい定義を教えてもらいました。
「愛情」とは理解し、理解されること。そこには、条件は何一ついらないこと。
私たちは、生まれてから無条件の理解を求めていたと思いました。
とうこは、それを得られなかったことに対する残念感、強い憤り、怒りを持っていました。
本当は、このとき、とうこはギブソンの仲間でありながらも、心には確かな希望を持っています。
しかし、このセリフはとうこの本心で気持ちをぶつけています。とうこも私も、よくも悪くも嘘はつけないからです。
希望とか、上品さとか、志とか、助け合いとか、そういうものをすべて見失うしかなかった。
私の思い出ファイルはそんな粗末なファイルしかない。
今から5歳、6歳に戻れるわけじゃないし、どうやったって思い出ファイルなんて作り直せない。
だから、私は損得勘定で生きてやると決めたんだ。
どうして、私はもっと楽に生きさせてもらえなかったんだろうか。私は本当の意味で子供になれた瞬間はあったのだろうか。
今頃気づいたって遅いじゃないか、だってもう時間は戻せない。
そう思うと、怒りや口惜しさ、人生に対する不満が沸き起こって、それだったらもう損得勘定で生きてやるよ、とあきらめる気持ちは確かに自分の中にありました。
そんなとうこを、LUCAはずっと見守ってくれています。
そして、とうこもまたLUCAからもらった「あなたの使命」を胸に、とある決心は揺らぐことはありません。

「愛情」に関する思い出ファイルと言われながらも、思い出ファイルに愛情あふれるものがないということが分かりました。
では、その思い出ファイルに、愛情を感じさせる思い出がないと、一体、人はどうなってしまうのか。
視床下部は、思い出ファイルが虚しいものとして人の心に残ることで、愛情の中枢が起こす大きなエラーの本質を、一つひとつ、紐解くように、博士ら4人に打ち明けていきます。
人間は、人として完成するためのプログラムを、体験を通して思い出ファイルとして貯めこんでいる。
人として1番、大事なプログラムは、
「家族から大事にされている、認めてもらっている、大好きになってもらっている」
そう信じられる体験をいくつも重ねることです。
かにちゃんが視床下部を演じてくれて、通しでこのセリフを聞く度に、私たちが求めていた答えを何度も何度も入れなおさせてもらいました。
とうこが言った強い残念感も本当です。しかし、思い出ファイルがスカスカだとして、それを嘆いてあきらめて、自分の人生に対してひがんだ気持ちで、投げやりに生きていくのか。そうではなく、思い出ファイルがスカスカだからこそ、これから出会っていく人たちに、自分たちはどう接していくべきなのか、過去をみつめ、これからどういう姿勢で過ごしていくべきなのかを、このセリフに何度も考えさせられました。
家族が、それぞれお互いを大切にして、協力しあっている、という体験を4歳、5歳、6歳の間、積み重ねて、愛情の思い出ファイルを暖かな体験でいっぱいにできたら、愛情のプログラムは成功する。
もし、愛情のプログラムが失敗したら……。自分は家族から大事にされていない、それに家族もこわれそうだ、という気持ちが6歳までにプログラムされてしまったら、その人はいったい、どうなってしまうのか。
視床下部が段階を追って、丁寧に一つひとつ教えてくれます。
12歳までは、一見、普通の子供として育つ。12歳になり、女性ホルモン、男性ホルモンが多く分泌されて身体つきが変わってくると、視床下部の愛情の中枢は、女性ホルモン、男性ホルモンの影響で、これまで大事にしてきたものを壊す衝動に包まれ、大暴走を始めます。
なぜ、壊す衝動で大暴走をはじめるのか。
それが親離れだということ。
人はそうやって、大好きだった両親や自分自身を否定することで、よりよい先生に巡り合いたいと願い、よりよい自分に脱皮していくことができる。
しかし、愛情の思い出ファイルをたくさん持っている人は、心の中に暖かな思い出、家族と積み上げてきた信頼関係で得た安心感や、自分に対する自信があるから、その大暴走にセーブを効かせることがことができる。
スカスカの思い出ファイルの人は、親の否定、自己否定を受け止める心のクッションがなく、すべてストレートに受け取ってしまい、本能が一気にバランスを崩して、身体に変調をきたしていきます。
場合によっては、精神に変調をきたすようになります。
それが、依存症のはじまりでした。
被害感情が強くなり、自己否定が強くなり、極端に人間関係がとれなくなってしまう。
家族が大好きで、大嫌い。集中力が長続きせず、認識は歪み、様々な依存症を発症して、社会性を失っていく……。
はじめに視床下部が教えてくれた、すべての中枢を支配する愛情の中枢を中心に、その周りにある、生存に絶対に必要な調整を行ってくれる中枢たちが、愛情の中枢の大暴走によって、過剰に働いたり、うまく働くなってしまう。
愛情のプログラムの失敗によって、依存症は引き起こされていたということ。
これがまさに、摂食障害になった私たちのことそのものであり、依存症になるメカニズムだったのです。
動物は未熟で生まれてくると、親に保護されて育ち、いずれ巣立ちのときを迎えます。その時、親や家族から気持ちが離れて、血縁関係のない異性に目が向くようになるというのが普通の巣立ちですが、人間の場合、4歳、5歳、6歳で、巣立ちのプログラムをインプットします。
視床下部は巣立ちのプログラムを一言でいうと、「利他心」をきちんとインプットするということだと教えてくれます。
「家族も、一人ひとりは自分以外の存在です。
人は他の人を喜ばせることが嬉しい、
人は人を喜ばせると、自分が幸せになっていく」
このセリフを聞く度に、何度も何度も利他心をインプットさせてもらうことができました。
凍っていた本能が少しずつ溶けて、浄化されるような感覚を感じました。
人は利他心をインプットする、すなわち、良いしつけとして、優しい気持ちで接してもらえないと、大人になっても、脳のエラーが解消できず、生きづらさをずっと抱えながら生きていくことになる。
お父さんは、まだ見ぬ誰かのため、そして何よりも私たちのために、この病気の仕組みを分かりやすく書いて教えてくれました。
私は、この仕組みを本当に理解し、いつ誰にでもちゃんと説明できるようにならなければいけないと思いました。そして、プログラムが失敗することが起きない社会を作っていくことが私たちの使命なのだと思いました。
視床下部は、最後に、人間は脳だけで生きているわけではないことを教えてくれます。
私たちの先祖のほとんどは大脳がない生き物だったけれど、そのときから私たちの先祖は立派に生きてきたこと。
心の在り処を知りたいならば、五臓六腑の定例会に行ってみるといい。
視床下部にそう言われ、博士ら4人は、五臓六腑の定例会へと向かいます。
大人数ダンス曲のひとつ『ビューティフル・ピープル』
ここでいう「ビューティフル」は、手段である大脳新皮質で計算された、形だけで中身のない美しさ。
私たちは、視床下部で教えてもらった利他的で優しい気持ちで、大脳辺系の本能が満たされるような、何にもとらわれず、自然のありのままの自分を輝かせながら生きていきます、そしてそんな私たちの仲間になりましょう、という気持ちで、ゆりかちゃんが振り付けてくれたフランダンス『ビューティフル・ピープル』を踊りました。