「植物の話などを聞いて」 あんな

9月20日

■2022年スプリングコンサート
 スプリングコンサートの中で、2箇所、涙が出てきたところがありました。
 一つは、ソロモン王のセリフで、「人は、穏やかな心でいたら、自然と、進歩向上していくものなのだ」というところで、だから効率を求めない、空しいと繰り返し書いたのだというくだりです。
 このことは、ずっと長いこと疑問というか、苦しかったことだったから、スプリングコンサートのとき本当に癒されたというか、納得できた感じがしたところで、そのときの気持ちを思い出しました。

 それから、アインシュタインの手紙のところの「E=ic2」のくだりで、愛がすべてだったというところです。宇宙も、光も、すべてが愛だったということ、自分たちを作っているものも愛、宇宙を満たしているものも愛、その愛は、人間の愛情そのものだということ、そのことがわかったとき、すみずみまで癒されるような感じがします。
 そういうことだったのか、という気持ちで満たされます。

 ソロモン王のあゆちゃんの表情や、盛男おじいちゃん役のるりこちゃんの表情が、印象に残りました。
 大人数ダンスが揃っていて綺麗だと思いました。

■植物の話などを聞いて
 動物的なところと植物的なところがあって、植物的なほうに心があるというお話がありました。
 それとはあまり関係ないかもしれませんが、例えば桃に関わってくる中で感じていることで、桃とか樹木とか植物というのは、性善説というか、基本的に素直でよくありたいという気持ちに溢れているのを感じます。

 そのことがとても信じられるから、そういう基本的によくありたいという存在であるという前提があるから、心の対話がしやすいと感じます。
 だから、桃に何か不調があったら、何か不調になる悪い要因があるわけで、それを解消するなり対策してやれば、健やかになるはずだし、何かが悪いのだから桃が本来のよくありたい気持ちになれるようにどうすればいいのかを考えたらよくて、それが正しければ桃は健やかによくありたいという本来の気持ちで育っていくと思います。

 どんな状況下でも、一貫して、よくありたいという思いで生きているのを感じます。
 無理なアクシデントが起こったとしても(例えば、土が重粘土質、過度な剪定、枝が折れる、暑すぎる、水不足)、基本的に決していじけるということはなく、その中で桃なりに精一杯のよくありたいという思いで、桃なりに工面して、できる最善のバランスを取って、その結果が表れていると感じます。桃の健気さというのを、しばしば感じています。
 だから人間も植物的なところのほうが大きいのとしたら、基本的によくありたい存在なのだろうと思ったりします。

■俳句
 ハウスミーティングで、るりこちゃんの話で、お父さんが、「俳句にしたらいいんじゃないか」ということを話してくれて、それはとてもいいなと思って、実はそういうことが大好きで、私もやりたいと思いました。
 俳句とか川柳というのは、本当にすごいなと時々思っていて、みんなでキャンプに行ったときに作った俳句とか、川遊びのときのるりこちゃんの句とか、そういうのはずっと心に情景とともに色鮮やかに切り取られて残っていて、写真と同じようにいつまでも色あせることなくくっきり残っていて、俳句とか川柳とか短歌というのはそこが本当に素晴らしいところだと思います。そういえば、盛男おじいちゃんも、俳句を作られていたなと思っていて、フルマラソンのときに読んでくださった句も、上の句は思い出せないのですが「なのはな娘」「駆け抜ける」という言葉と、光景は覚えています。

 高校のときに俳句を作るのが授業であって、そのときに同じクラスの子が全国入賞して図書カードをもらっていたのですが、そのときの、「花形の 人参入りの弁当が 昨夜の喧嘩を反省させる」という句にも、本当に感銘を受けたのを覚えているし、やはりその句も、るりこちゃんの句のように、私の中でずっと忘れることがないです。

 また野坂昭如の文章も七五調になっていて、とても面白く読めて、これも才能だとお父さんが話されていて、私も野坂昭如の小説が大好きです。なのはなに無い本も、野坂昭如の小説は結構読んでいるのですが、忘れっぽい私でも内容を覚えているものが多いです。人間の核心に迫ってくるところも好きです。また、結構、過激というか、行き過ぎた話が多いように思っていたのですが、野坂昭如の幾つかの小説に出てくるような事件が今の日常的になってきているなと数年前から思います。

今日の一句
「さよこさん お煎餅たくさん ありがとう 大したことは してないのだけど」