「見えてくるもの」 ほし

5月22日

 今日も、気持ちを改めたい、と思った事がありました。
 今は、やはり、(疲れて動きがぎごちなくなって、誤解されたらどうしよう)(悪気はなくても間違った動きをして誤解されたらどうしよう)という恐れの気持ちが、自分の中にあります。
 そこから、動きをセーブしてしまったりだとか、誰かからの言葉が被害感情になったりしたり、誤解されないようにかっこをつけて取り繕ったりで、利己的なほうになってしまっているし、良くないな、と思います。
 今も、朝起きた時や、作業に出る前、強い緊張を感じてしまいます。(緊張の度合いが行き過ぎてそれで体調を崩すことは、もうほとんど無くなりました)

 私は、ずっと、楽しい気持ち、嬉しい気持ちに、あえて蓋をしてきました。
 気持ちはあっても上手く外に出せない、出したとしても誰もいない、誰も一緒じゃない、そんな悲しい状態に陥らないように、あえて、その感情を持たずにいました。
 何も見えないように、聞こえないように、何も思わないように、感じないように、考えないように、視野も狭めてきました。

 怒って苦しくならないように、悲しんで倒れてしまわないように、全ての感情を、症状で誤魔化していました。私は、一日中、四六時中症状が止まりませんでした。
 ずっと症状で誤魔化して、そうせざるを得なくて、症状が止まってほしい、という気持ちも失って、真っ当なものが、どうなのか、見失っていました。
 やがては、自分が何を思うのか、何をしたいのか、全部、無くなって、どうして自分がここにいるんだろう、どうして自分はこうしているんだろう、と果てのない虚無感だけが付き纏いました。

 今日、みんなのベストオブ日記を読ませてもらって、みんながそれぞれ、恐れについて、自分と向き合っているのを感じました。
 私は、みんなと作業したり、みんなと同じ場に居たりすることに、いつも落ち着かない、苦しい、逃げ出したい気持ちがあったと思います。
 物心ついた時から、人前で自然に話したり、何かをしたり、思うように振舞えなかったり、走ることや身体を動かすことに、泣き叫びたいくらいの恐怖を抱いたり、学校で一言も話せなかったり、そのことについての理解も得られることは無くて、回避すること、自分の気持ちを隠す事で、私は、自分を保ってきたのだと思いました。

 または、感情を持たないようにしたり、あまり人と関わらないような環境にあえて行ったり、自分が確実に出来ること、得意な事だけをして、あとは症状に逃げて、恐れから逃げていました。
 でも、なのはなに来て、私は、逃げるわけにはいけなくなりました。
 私は、人と関われない恐れ、社会に適応できない恐れと、それが例え、どれだけ重くても、時間がかかっても、誰からどう思われても、向き合わないといけません。

 私は担当野菜に対しても、もっと正しく認識して適切な世話をできたり、同じ担当の人ともオープンに明るく朗らかに関係を取りたいと思うのに、それができていないんじゃないかという不安を感じてしまうことがあります。
 そう思うと、自分に対して自己否定が始まってしまい、なかなか自分の中に積み上がっていかない感覚がありもどかしく感じます。
 的確に物事を認識したり、人と関係を取ることは難しいなと感じます。
 恐れの気持ちがあるから、些細な事で、私はすぐにグサッと来て、誰かの手を借りないと、悲しい気持ちから切り替えることがなかなかできず、物事に取り組むのも、中途半端になってしまっていたと思いました。本当に、申し訳ないばかりです。

 しかし、なのはなに来て、物凄く凸凹しながら、時々動けなくなりながらでも、みんなと過ごす中で、少しずつ見えてくるものがありました。
 もっとさらけ出していいのだと思いました。
 なのはなに来て次の日に、盛男おじいちゃんからかけてもらった言葉を思い出しました。
「みんな、同じように、傷ついても、明るくしているんだから、そうしたらいい」
 と言葉をかけてくださいました。
 その時、盛男おじいちゃんの深い優しさを感じて、こらえきれないくらいの涙が、ボロボロと出たのを覚えています。
 また、来たばかりの時、お父さんが、「ほしちゃんは、真面目で真っ直ぐだ」と言ってくれた時、人生で、今までないくらい涙が溢れてきたのを覚えています。
 その時、お父さん、お母さんが、本当に私の事を一人の人間として、大事にしてくれていることが、本当に伝わりました。
 ずっと求めていた優しさをくれたことを、思い出しました。

 今、私が、そういう風に、気持ちを改めたい、と思えるのも、信じることができる、と拙くても思えているからだと思いました。
 ここでなら、お父さん、お母さん、みんなもいて、自分を守る必要も、逃げる必要も、1つもないです。
 本当に、そう思えるようになるまで、今まで時間がかかって申し訳ないばかりです。
 信じることができてないから、批判的な気持ちや、許せない気持ち、ギスギスとした気持ちが出てしまうのだと思いました。
 また、信じることが出来てないから、みんなの優しさも感じられなくて、本当に大事なものを見失って、効率ばかりを求めて、頑なになっていました。
 でもそれは、本心では思いたくないことです。あるべき姿ではないです。
 みんなにとっても、私にとっても、悲しいことです。
 信じることに、ブレーキをかけていました。
 けれど、もう恐れないで、信じます。
 こんなに視野の狭い自分は、本当は違う、相応しくない、と思います。
 息切れのないように、しっかり気持ちを持っていきます。

 今日は、スタッフさんたちが考えてくれて、早朝作業はお休みで午前中はゆったりモードだったり、お昼には桃畑で台所さんが作ってくれたスペシャルなサンドウィッチで、そのあとも、みんなで遊びができたりして、嬉しかったです。
 サンドウィッチは、卵と、照り焼きのサンドで、とびきり美味しくて、嬉しくて、みんなで頂けたことが嬉しかったです。

 だるまさんがころんだ、だるまさんの1日、山手線ゲームをさせてもらって、大人数でのだるまさんがころんだは迫力がありました。
 私は、けいたろうさんの鬼に捕まって、だるまさんの1日で、一度鬼の役をした時、みんなが静止するポーズが、美しい静止画のようで、面白かったし、みんなが素敵だな、と思いました。
 特に、「だるまさんがソフトバレーをした」と言ったとき、みんなが、ダンスのポーズみたいで、感動しました。

 山手線ゲームは、みんなで円になって、お題にそったワードを、リズムに乗って一人ずつ言っていって、詰まったり、一度出たワードを繰り返すと負けになってしまって、すごくはらはらしたけれど、楽しかったです。
 家族みんなで、過ごす温かい日曜日が、幸せな時間だったな、と思います。

 今日も、担当野菜のことで、自分が知らないうちに、みんなが手を打ってくれていて、それは私は把握していなくて、「どうして何も言ってくれないんだろう」と考えてしまって、グサッと来てしまったけれど、同じ担当の子が、「今日、この手入れしたよ」と話してくれて、すっと気持ちが癒されたのを感じました。
 だから、安心していいのだと思います。
 後から、落ち着いて考えてみれば、ちょっと何かあったのかな、と思うだけです。

 夕方に少し、まちちゃんとカボチャの見回りに行かせてもらったとき、安心して、カボチャの様子を、一人で見る時よりも、落ち着いて、いつも以上に的確に見えたと思います。
 まちちゃんが一緒にいてくれて、和気あいあいとした気持ちで、カボチャのことや、作業でよくあることなどの話をして、それが安心に繋がったのだと思いました。
 自分ができること、気付けることは、しっかりやっていきたいです。

 また、今朝の事になりますが、苗の水やりをしていた時、ヘッドがなくて、少し困っていたら、まりのちゃんが、さっと、
「私、ヘッドさがしてくるから、これ使って」
 と、凄く自然にヘッド付きのじょうろを渡してくれました。
 別の時は、ショウガの水やりを、私とまりのちゃんとしていた時、「毎日、ショウガに水やりをした方がいいんでしょうか」と私が言ったら、その日のお風呂でまりのちゃんが、
「ショウガは高めの気温と、ある程度の湿度を好むから水やりはやっていいと思う」
 と話してくれたり、ショウガに藁を敷くことを提案してくれていたり、まりのちゃんの、ありがとうと言わせないさりげない優しさが、本当に素敵だなと思ったし、凄く助けられました。
 私も、まりのちゃんの様に、優しさを使っていきたいな、と思いました。

 今は、誰かから話しかけられたら、さっと気持ちが切り替わるようになっているな、と思うし、それも、ここで過ごす中で得たことで、みんなのお陰だな、と思います。
 ちょっとしたことでも、みんなが、話しかけてくれるのが、とても嬉しく思います。
 みんなの温かさや優しさだけを感じて、安心して、落ち着いて、目の前の事に気持ちを添わせて、小さなことでもここにる責任を持って生活する気持ちを、改めて確かに持っていきたいです。
 周りの人にとって、どんな発言や態度がプラスになるか、そんな優しさ基盤の気持ちを、いつも切らさず、諦めず持つこと、とにかく信じること、それが全てだと思います。

 長くなりましたが、読んで下ってありがとうございました。
 おやすみなさい。