「もっと自由になれる」 のん

10月23日

○夜の集合
 夜の集合で、お父さんが、自分の人生の主人公になる、という話をしてくださいました。質問箱に、ご飯を食べてすぐ物足りない感じがある、ということについての質問が入っていて、それに対してお父さんは、自分の欲求と結果や満足感が見合ってないからだ、と話してくださいました。

 それが見合う人というのは、何かをやるぞ、となったとき、すぐプランや見通しが立つ人。ちゃんと状況を認識できる人。プラン通りに進むし、結果がでるから満足感が感じられる。今日、ハウスミーティングで、楽器やダンスが上手くなるにはどうしたらいいか、という質問が出たけれど、楽器もダンスも初めての人がほとんどのなかで、何をしてもすぐできるようになる人がいる。何をやっても上手くならない人がいる。その違いはなにか。何をやっても上手くならない人は、自分の人生の主人公になってない。

 じゃあ何が主人公になってしまっているのか。それは、過去の経験、思い出。きつく誰かに叱られたこと、それで申し訳ない思い、悲しい思いをしたこととか。それがふとした拍子に蘇ってきて、そうならないように守っている。

 自分の人生は自分しか分からない。自分以外の誰かになることはできない。中学生くらいに自分はどこから来て、どこへ行くのか、なんて考えることもあると思うけれど、自分は自分の人生しか生きられないのだから、自分が生まれてきてこの世界ができて、死んだらこの世界はなくなる、と思えばいい。唯我独尊と誰もが思っても矛盾しないように、みんながそう思ってもなんの矛盾もない。そんなことを話してくださいました。

 自分のことになるのですが、最近、久しぶりに喘息の発作が出たので、まだ気持ちが抜けていない部分がどこにあるのか、と思って考えていました。そこにお父さんの今日のお話が重なりました。

 自分じゃないところに重きを置いている、今日の話の言葉で言えば、自分じゃない人を主人公にしている。主人公にヒロイン(人生)を譲って消えていく脇役くらいになっている、と思いました。

 期待通りにできなくて、怒らせてしまった、嘆かせてしまったことへの罪悪感がひっかかっている、と思いました。目の前にそのときの相手がいなくても、きっとこれを望んでいるとか、これをしたら嘆くんだろうな、とかいうことも想像できるし、それを自分がしたときの罪悪感も心に再現できる。責められる恐怖も再現できる。今目の前にいるのが違う人でも、考えてみればその罪悪感を感じたり、責められるときのことを前提にしている、と思いました。

 人ってそういうもんだ、という基準がずれてるってこういうことか、と書いていて思いました。また、それがずれていようがいまいが、関係なく、結局自分は自分の気持ちや考えしか分からないのだから、相手にどう思われているとか気にしてもしょうがないし、自分の人生なのだから、自分のやりたいようにやればいいんだ、と思いました。

 自分のやりたいようにやっても、幸せは映し鏡で、幸せにした相手の幸せ分だけ幸せを感じられるようになっているから、そうやっていきていくのが自分も一番幸せだから、間違ったりしないんだ、と。

 気付かずに心を覆っていた雲が一部消えて、光が差し込んできたように感じました。今の自分の感じ方より、もっと解放された感じ方がある、もっと自由になれる、そのことを掴んだ感じがした夜でした。