「利他心の源は」 ちさ

4月20日

 利他心の源はなんなのだろう、と思いました。
 昨日帰ったら、ブロッコリーの株の粉砕が終わっていないヘルプの放送がなりました。りなちゃんの終わらせたいという切実な声や、畑でれいこちゃんが必死になって作業しているのだと想像すると、反射的に駆けつけたい、という気持ちになりました。

 同じ動作を繰り返す機械になったかのように、ひたすらみんなが解体してくれた株を適度な束にして粉砕器についてくれていたれいこちゃんに渡していきました。出来るだけれいこちゃんと粉砕機が止まることなく動けることに集中しました。最初は山がたくさんあるなと思ったけど、目の前の一山に集中していると気がついたら最後の山に入っていて、畑の端に来ていました。何度渡しても毎回れいこちゃんが笑顔で受け取ってくれて、同じことを同じ容量でやっていても、笑顔ひとつで嬉しさはおおきくなるんだと改めて思いました。

 その作業をやりたい、というような純粋な透明な気持ちで、腰軽く動ける人がすごい、と思っていました。そうなれない自分のことを、濁っているな、というふうに思っていたけど、たった1人の人の力になりたい、っていう気持ちだけでもいいのではないかと思いました。それなら持てます。自分の利益はさておき相手の利益を優先させること、そういわれるとすごく難しかったけど、たったそれだけなのだと、以前お父さんお母さんがお話ししてくださっていたけど改めてストンと落ちてきました。やりたいとか、好きとかではなくて、その人のためになりたい、助けたい、少しでも力になれたらいいな、その気持ちだけでもいいのだと思いました。

 また、もう一つ、関連して思ったことがあります。
 夜の当番のとき、良かれの気持ちだけで動く、そう、そう改めてむかいました。しかし、そのように動いたつもりだったけど、どこかモヤモヤするような、あるべきところにはまれなかった後味の悪さが終わった後に残りました。なんでだろうと考えていました。そして思ったことがあります。
 利他心は、相手への好きな気持ち、尊敬する気持ち、謙虚さがないと生まれないのではないか。
 リーダーさんに対して、自分主体な感情で、歯車が合わない、と思ってしまった時、利他心はしゅるしゅると煙となって、そして姿を消していきます。なぜ自分が、良かれの気持ちだけで気持ちよくいつも動けないのか、その答えなのではないかと思いました。自分の腰の高さ、自分の占める割合の大きさが邪魔をしているのではないか、と。
 それを変えるのは難しいけど、自分の体で理解できたことは大きいのではないかと思います。相手を敬うこと、好きになること、その気持ちを育みます。

 うまくいくことがあれば、いかないこともあって私の道は凸凹だけど、平坦な道を歩いているかのように笑顔で、明るくい続けたいです。

 帰ってきたときにお母さんが笑顔で手を振ってくれたり、夜にお父さんがほんの一言だけれど声をかけてくれたり、たったたったそれだけだけど心の中にポッと火がともるように温かなうれしい気持ちになりました。やっぱりお父さんとお母さんが大好きで、ここが大好きだなと思いました。
 読んでくださりありがとうございました。
 おやすみなさい。