「勉強との向き合い方」 のん

3月5日 

 ここ数日、というか、お楽しみ会が終わって勉強を再開してからずっと、勉強となのはなの活動との両立をどうしたらいいのか、どうバランスを取ったらいいのかを考えていました。
  勉強を理由に作業に出ないことへの申し訳なさ、苦しさ。でも消えない勉強が遅れていることへの不安。これをどうしたらいいのか、どうしてこんなに苦しいのか、ずっと考えていました。 
 演奏、年末年始、ミーティング、お楽しみ会の準備などのときには、隙間時間に勉強しようと思っても、その目の前の勉強以外のことばかり気になって考えてしまって、勉強にならない!と100%みんなとの活動に気持ちも体も向けるのですが、それが終わって、よし勉強の遅れを取り戻すぞ!となると、ちょっとした作業に呼ばれたときに頭が勉強のことしか考えられなくなっていて、作業どころじゃない、と100%勉強になってしまって、利他心で動けない自分に自己嫌悪になる。勉強となのはなのバランスが、0か100かになっていました。
  なんでだろうと思って考えました。最初は勉強となのはなの活動との切り替えのスパンがイベントがある数週間と長いんじゃないか、と思いました。イベントの準備の時でも隙間時間に勉強して、勉強主体になってもヘルプに呼ばれたら気持ちを切り替えて行けるくらい、気持ちの切り替えが速くなればいいんじゃないか、と思いました。 
 でも、もっと考えていくうちに、それは何かがおかしい、と思いました。そうして何がおかしいのか考えてくと、ある考えに思い当たりました。
  私は勉強と利他心の生き方が深いところでは切り離されていた、と思いました。まだ見ぬ誰かのために勉強している、と言いつつ、目の前の人に優しくありませんでした。目の前の誰かのために動けないやつが、まだ見ぬ誰かのために動けるはずがない、と思いました。
 
 税理士になって働くことと、利他心で生きることのどっちが土台なのか、ということを間違っていました。私は税理士になって働く先で利他心で生きようとしていたと思いました。でも本当は、利他心で生きる土台の上に税理士になって働く、ということがくるべきで、利他心で生きていくことに1番重きを置いたら、それの手段が税理士なだけであって、ほんとうはその手段はなんでもいいのだ、ということが腑に落ちました。
 なのはなで誰かがヘルプを求めていたら飛んでいく。それ以外の時間で、誰かのための力になることを思って勉強する。それで落ちたら別にいい。そうか、こういう気持ちでやればいいんだ、ということが、言葉面ではなく、自分の心の動きとして、理解できました。
  そう思ったら、勉強が楽になりました。なんで税理士になるんだろう、と勉強が苦しくなると思う時がありました。でも、利他心の生き方の上で1つの手段の選択肢だ、と思ったら、不思議なことに逆にできることなら税理士の仕事がしてみたい、とも思いました。ガツガツした欲ではなく、興味が湧き上がってくる感じでした。別の表現を思いつきました。「受からなくちゃいけない」ではなく「受かりたい」に変わった感じがしました。
  このことを考えている期間、考えることを避けようとすると気持ちを何かに逃がしたくなりました。でも苦しさから目を離さないでいると気持ちを逃がしたい感じはなくなりました。そのことも面白い、と思いました。 
 勉強への取り組み方がはっきりして、気持ちが楽になりました。この気持ちを保てるように頑張ります。