「確かなものにしていきたい」 ちさ

9月14日

 今日は朝からとても涼しく、空気が一気に秋になったように感じました。暑くも寒くもなく、これぐらいがちょうどいいなと思いました。畑もしやすそうです。

 昨日の続きのような話になります。
 昨日、気持ち的にすごく充実していました。いつもと同じ畑作業、というひとつをとっても、充実感が違いました。
 その始まりはパーフェクトの練習のときのお母さんのお話です。
 今はみんなで結婚式をお祝いする気持ちでいないとダメ。自分がうまく歌えているか、綺麗かどうかなんてどうでも良くて、りゅうさんに沿わせて歌うこと。それが目の前のたった1人のために、という利他心なのだ、と。
 いつも教えてくださる当たり前のことをお母さんは言っただけかもしれないけれど、今になってその意味が真っ直ぐに入ってきました。全身が射抜かれるようだったくらいに。

 何かが変わりました。まだはっきりとした形をつかむことはできていないけれど、断片的だとしてもパズルの1パーツだけでも探すように、書きます。
 作業でもなんでも、私は自分が楽しみたい気持ちがあったのかもしれないと考えました。もちろん楽しむのはいいことだけれど、それはおいかけるものではなくて、あとから来るものなのではないかと思いました。楽しみたい気持ちは少し間違えたら自分の欲になります。楽しいとか、好きとか嫌いとか、やりたいとかやりたくないとか、そんなことをきっとよしえちゃんやみかちゃんは考えていないと思います。
 昨日の作業のとき、自分の身体が自分じゃないみたいにくるくる動くのがわかりました。いや、本当に自分の身体じゃなかったです。みんなの身体だった、という言葉がしっくりきます。
 始まる前、楽しそうとか、やりたいとか、プラスの気持ちも含めて、自分がどう思うというような私的な気持ちはどこにもなかったです。(意思がないというのとは違って)一人の人の体を使わせてもらっているだけで、言ってしまえばそれは自分である必要もなくて、自分というものから離れていました。

 楽しい、という感情はわかりやすいようで、いろいろな質感があるのではないか。そして、心の底から充実する楽しさというのは後ろからついてくる楽しさなのではないか、そう思いました。楽しむことは全部いいことだと思っていたけれど、利己的な楽しさと、利他的な楽しさはまったく別のものなのではないかと思いました。

 また、繋がっていないかもしれませんが、先日お母さんがしてくださったお話で心に引っかかっているものがありました。利他心利他心っていうと聞きたくなくなるけどすごくシンプルで自分がしてもらって嬉しいことをすること、目の前の人の気持ちを汲む、そういうことだ、と。
 頭ではわかるけどどういうことなのか、心でちゃんと理解できていなかったので、じっくり温めてきました。こうしてほしい、とか、わかってよ、などと逆に汲んでもらいたい気持ちが自分にはありました。それこそ利他心の反対で、消すべき気持ちでした。

 相手に自分の全アンテナを向け、自分の全容量を向けて、マイナスなこともいいことであっても、自分の気持ちを考えている暇はないのです。
 昨日がなのはなの一大イベントだった、というような実際に超スペシャルな一日だったわけではないのです。きっとみんなにとって普段となにも変わりがないものです。(言い方が変ですが。)ただ自分にとってすごくスペシャルに感じられたのは、一日、という中に潜んでいるたくさんのうれしいという種、楽しいという種を探し出すことができたからでした。そのうれしい気持ちの種はかくれんぼがとても上手で、透明なレンズ(透明な気持ち)で見なければ見つけることができないものなのだと思いました。

 気持ちがとても充実するとき、よくよく考えてみれば自分じゃないときです。自分も他人もなくて、楽しいとか、うれしいとか、プラスの気持ちも含めて、自分の気持ちを考えたり、自分の中で会話や考え事をしたりすることがないときです。
 自分を消す、自分から離れる。
 それがどういうことなのか、お母さんの言葉、昨日の時間、そして今日記を書くことで、感覚的にも、理性的にも、すべてのピントが合って理解できた気がします。
 新しいことをつかむのには時間がかかるけれど、曖昧に濁していればあっという間に見失います。まだ完全にわかり切っていないとしても、この感覚や気持ちを毎日言葉にすることで確かなものにしていきたいです。だから日記を書くんだな、とふと思いました。

 別に今日何かあったわけでもないけれど、勉強をしていても、当番をしていても、何をしていても気持ちの高揚感というか、充実感というか、満足感がまるで違うのが不思議です。何か楽しみなことがあるとき、ウキウキしたりワクワクします。今すごく何かが楽しみな時のように気持ちが上がっているのに、何か今日あるっけ、と考えたとき、とくに特別なことがあるというわけではなくて、あれ、と思いました。ぶれずに前向きな気持ちになれるとき、何かがあるから気持ちが上がる、というのとは違って、特にこれ、というものがなくても、自分から離れていると、意識を超えて生きる意味を感じたり、やりたいことがあったり、可能性を感じたりして、湧き出てくるものがあるのかもしれません。すごく今不思議な感覚です。これが今だけのものなのかはわからないけれど、自分から離れる感覚を絶対のものにしたいです。それが大きなヒントだと思います。

 また、もう一つ書きたいことがあります。
 今、結婚式に向けて喫茶係のお手伝いをさせてもらっています。その中でいろいろな案を考えたり、調べたりする場面があります。
 今日何かいい箱はないかな、とみかちゃんが言っているのを聞いて休み時間などに少し見ていました。いいなと思ったらひとまず取っておいて、みかちゃんに見てもらおうと思いました。却下される前提で探していて、それでも探すことが楽しかったです。自分の案を使ってもらいたい、というのではなくて、みかちゃんの力になるといったら足りなさすぎるけれど、少しでも材料になればいいな、くらいの気持ちで、ダメもとで調べました。それでも全然いいのです。

 お母さんがよく、一つの材料になる、というお話をしてくださることがあります。頭ではわかるけれど、理屈で終わっていました。それがどういうことなのか、すごくわかりました。こういうことを言っていたのかと、やっと心とつながりました。
 私の心はすごく理解が悪いです。頭と心の連携がとるのが下手です。だけど、保留にして置いたら、ちゃんと心で理解できる日が来るから、わかったふりをしないで片隅にちゃんとおいて、たしかなものにしていきます。

 自分のことばかりの日記になってしまいごめんなさい。
 読んでくださりありがとうございます。