「みんなにとっての私」 まゆ

5月2日

 今日は、ゴーヤ第1弾の定植、エビスかぼちゃの定植、水菜の手入れを、2時間で全て終えることが出来ました。
 カボチャの定植や水菜の手入れは、本当は予定していなくて、昼食前に急遽決まったので少し頭が混乱したのですが、定植メンバーが助けてくれて、何とか終えられることが出来ました。
 最後に水菜が植わっている、いいとこ下へ移動したときに、色んな所からみんなが駆けつけてくれて、無事に17時までに作業を終えることが出来ました。
 水菜の手入れ(草取りと追肥)にかかった時間はたったの15分で、大人数の力を感じました。

 最近、やっと本来の自分が戻ってきた感じがしています。
 ミーティングの後からずっと不安定で、(もう元には戻れないのかな?)(本当は、私はこんな人なのかな?)と考えたりもしたけど、そんな心配をしていたことが馬鹿みたいだったと思いました。
 落ち込んだり、自己否定をしたり、被害感情を持つのは、私らしくない!とハッキリ思いました。
 一瞬試してみたけど、やっぱり居心地が悪いです。
 試してみた、という表現は、少し語弊があるかも知れないし、もちろんその時の自分には、そんなわざとの感情は全くなかったのですが、“私は何であんなに不安定になって、隠っていたのかな”と考えてみて、思ったことがあります。

 私はミーティングを受けて、自分がみんなと全然違う段階にいることを感じて、寂しくなったり、心細くなって、不安でした。
 今まで持っていた自分に対してのイメージと、現実の自分との差が、あまりにも大きくて、そのことをどう受け入れたらいいのか分からなかったし、受け入れられなかったんだと思います。
 (自分はこんなにもまだまだ回復とはほど遠い場所にいるのか……)と、自分の考えや価値観のズレにただただ衝撃を受けました。
 自分の考え、感情、行動、全てに自信がなくなって、何をやっていても、自分の存在さえも間違っているように思えて、身動きが取れなくなりました。
 そして私は、こもってみたんだと思います。どうしたらいいのか分からなくなって、逃げることにしたんだと思います。
 実際には逃げ場なんて無くて、どんどん苦しくなるだけで、こもることで得た楽しいことなんて1つもなかったです。
 
 私はここにきたころ、自分にこもる人やいつも怒っているような人を見ると、(一緒に過ごしているのにそれはないだろう)と、少し責めるような気持ちがありました。
 お母さんは、外向きでいることは優しいことだと言っていたけど、私はそれは当たり前のこととしてプログラミングされていたので、内向きの人のことを、(正直言うと、)とにかく理解できなかったです。
 でも、私も同じようになってみて初めて、自分にこもることは、外向きでいるよりも苦しいことなんだと思いました。
 (こんな苦しいことを、進んでしたい人はいないし、する必要がないな)と思いました。
 そして私は、もっと楽しい生き方を知っているのに、何をやっているんだろう。
 時間は限られているのに、何を迷っているんだろう。
 迷っている暇はないでしょ? もう苦しく生きるのはやめたのでしょう? どうせならもっと楽しく生きないと!と思いました。
 小さいころから何かあるたびに、
 「人生は1つの本とかその中の物語やと思う。平凡で何の苦労もなかったら、薄っぺらい小説になって、何も楽しくない。
 でも、大変なこととか超えることがいっぱいあったら、分厚くて読み応えのある本になって、面白いでしょ? 
 だから私の人生の本は面白い!」
 と言って何でも楽観的にとらえていたし、それは私の本心だたと思いました。

 ミーティング後から今まで、こんなに長い期間迷ってしまっていたけど、その時間は、無駄ではなかったなと思います。
 グダグダ迷っている期間も、私はみんなに受け入れられていました。
 そしてその期間があったから私はもう1度しっかりと自分の心の中にある気持ちを見つめ直すことができました。

 “人は、誰かや何かにとってメリットのある存在でないと必要とされない”と、悲しい気持ち、寂しい気持ちになっていました。
 だけど、違う。そうじゃない、と思いました。
 お父さんは、「僕は、みんなに『お父さんがいてくれてよかった。お父さんがいてくれるとやっぱり違う』と思わせるような、メリットのある存在でないといけないと思っている」と話してくださいました。
 私はそのことがとても印象深く残っています。
 私が、誰かにとってメリットのある存在でないといけないと思っているというのと、お父さんのその言葉は、本当はそんなに意味の違うことではないんだと思いました。 
 ただそれを嬉しいこととして受け止めるのか、悲しいこと、寂しいこととして悲観的に拒絶するのかで、全然違う事になるんだと思いました。
 お父さんも、お母さんも、あゆちゃんも、本当は孤独な気持ちや、寂しい気持ちや、悲しい気持ちがあるのかもしれない。
 いつもお父さんはお父さんで、お母さんはお母さんで、あゆちゃんはあゆちゃんでいないといけない。
 そうでなきゃいけない。そうでないとみんなに受け入れてもらえない。
 そんな思いは、少なからずあるはずです。
 だけど、誰に望まれるよりもまず、“みんなにとって私はこんな自分でありたいんだ!”という利他心の強い気持ちが、その人を苦しくさせないんだなと思いました。

 私は私らしくでいいんだ。私らしく、なりたい自分像を演じていこう。そう思いました。

 お父さん、お母さん、あゆちゃん、いつもあるべき姿を示してくださって、本当にありがとうございます。
 私は迷わずに、ただ真っ直ぐになのはなだけを見つめます。

 今日のバレーは全勝でした。めちゃくちゃ嬉しい!
 あゆちゃん、お誕生日おめでとうございます。大好きです。
 久しぶりに日記をかけてスッキリしました。集まりがあるので終わります。